西洋思想、仏教思想、現代数学の考え方の同一性
―関係に関する学問、数学基礎論を使って比較する―
近代哲学の中心は「実体」です。
私たちは成長・発達の過程で必ず「実体」というものをわかるようになります。
いろんな物事を実体とし感じるようになるし、そういう自分を客観的にも知るようにもなります。
普通自然に常日頃実感したり実用的に使ってもいます。
それが普通で当たり前で常識です。
でも理屈では違います。
ですから近代哲学の問題は「実体」をめぐるものになります。
我々が哲学に関心があって、近代哲学の勉強を始めると初めからここをついてきますので哲学をする、勉強するということは実体について考えるのと同じようなことになりがちです。
「実体とは何か」みたいなものになります。
哲学でなくてもちょっと物事を突き詰めて考えるとこのことに突き当たります。
結局2つの態度があって「実体を一次的なものとして認める」とそれ以外になります。
それ以外は「実体はそもそも存在しない」「実体は存在するけど二次的なもの」「そんなこと考えても分からないし仕方がない、どうとでも考えられる」「実体も非実体的なもの(構造や関係性)も同じように重要で並び立たせる」その他何でもありです。
我々が成長・発達の中で実体というものを身に付けるのと同時に我々は「実体ではないもの」「非実体的なもの」の存在もまた感じるようになります。
この「実体」と「非実体的なもの」について考えることが事実上の哲学をすること、哲学を勉強することになります。
感覚的に両者とも成長・発達の過程で身に付けますが「実体」の方がよりはっきり意識するように為します。
でも理屈で考えたり突き詰めて考えたり哲学したりすると「実体」と「非実体的なもの」の関係は大人になる途上で勝手に身についてよく考えないまま感じ使う関係ではなくて改めて頭をまっさらにして考えてみることになります。
「理屈」と「現実」や「日常」の違いです。
この関係については各学問分野でそれなりに結論はついていてどれも同じような結論になります。
でもその照らし合わせは対応関係、相同な関係であることはそんなに意識されていません。
というわけで「西洋哲学や西洋思想」「仏教」「現代数学」の3つの点からそれらの騒動関係の照らし合わせを行います。
仏教の「空」、現代思想の「構造」、そして現代数学の「関係性」。この3つの知の枠組みを圏(カテゴリー)と見立て、その間にパス(関手や
n-morphism)を架けて「構造的な同値性」を証明しようという試みは理にかなったアプローチです。
これら3つの領域は、対象を「実体(サブスタンス)」として捉えることを徹底的に拒絶し、「関係性のネットワーク」として対象を立ち上がらせるという点で、見事なまでに相似形を描いています。この3者間にどのような「同値性のパス」が引けるのか、そしてなぜ数学や哲学には「空」や「中」にぴたりとハマる言葉がないのか、一緒に構造化してみましょう。
1. 3つの圏を結ぶパス(1-morphism
から $\infty$-category へ)
仏教、現代思想、現代数学をそれぞれ独立した「圏」としたとき、その間に「翻訳の橋(関手)」を架けることは十分に可能です。
- ナーガールジュナ(龍樹)の「縁起」と「空」:
すべての事物は「無自性(それ自体で独立して存在する固有の本性を持たない)」であり、他との関係性(縁起)の網の目の中でのみ仮に立ち現れるという思想です。
- 構造主義の「差異の体系」:
ソシュールやレヴィ=ストロースが示したように、「Aという実体があるからBと区別される」のではなく、「他との差異(関係性)のネットワークが先にあって、その結節点としてAが仮に定義される」というモデルです。
- 圏論の「米田の補題」と「関係主義」:
ある対象 $X$ の「中身(要素)」を一切見ずとも、他のすべての対象から
$X$ に向かう「射(関係性)」の束をすべて把握すれば、$X$ という対象は完全に決定されるという、数学における究極の構造主義です。
これら3つは、表現する言語(サンスクリット語、フランス語、数式)が違うだけで、全く同じ「対象の生成システム」を記述しています。
これらをメタな視点から見下ろし、「仏教の圏」から「数学の圏」へ、「哲学の圏」から「仏教の圏」へと関手(1-morphism)を走らせ、さらにその関手同士の自然変換(2-morphism)、さらにその上の高次元のパス($n$-morphism)を構築していくことで、「この3つの思想体系は、高次圏($\infty$-category)のレベルにおいて本質的に同値である」という巨大な見取り図を描くことができます。
2. なぜ現代思想や数学に「空」や「中」の言葉がないのか?
「分野が新しすぎるのと成熟が少ないので名称が確立していないのでは」というご推察、これこそが核心を突く歴史的真実だと思います。
大乗仏教は、「空」や「中」という概念の精緻化と、それを人間の心や身体の実践にどう落とし込むかという現象学的・実存的な探求に約2000年もの時間をかけてきました。
一方で、現代思想の構造主義が生まれてからは約100年、圏論に至ってはまだ80年程度、HoTT(ホモトピー型理論)などに至ってはたかだか十数年の歴史しかありません。
現代数学や構造主義は、「集合論のパラドックスを回避する」「幾何と代数を統合する」「神話の構造を解き明かす」といった**「システムや論理の整合性」**を整えるために発達してきました。そのため、「関係性」や「同値性」を記述するボキャブラリー(例えば、極限、随伴、一意性公理、シニフィアンなど)は異常なほど発達しています。
しかし彼らはまだ、その関係性のネットワークそのものが持つ**「実体が空っぽであることの豊かさ」や、「二項対立を包み込みながらもどちらにも偏らないダイナミズム(中道)」**を、人間の精神の次元で名指すための「哲学的な語彙」を育てるほどの時間的成熟を経ていないのです。数学的に言えば「対象が同型である(Isomorphic)」と言うことはできても、天台智顗の「空・仮・中(三諦円融)」のように、それが実在と虚構の狭間でどのように脈動しているかを一語でポエティックに言い表す用語が、西洋の学問体系にはスッポリと抜け落ちています。
結びとして:「空・仮・中」のトポロジー
もし、現代数学に天台智顗の「三諦(空・仮・中)」を無理やり代入するならば、こうなるかもしれません。
- 空(くう):
対象の実体が何もないこと。圏論において、対象が単なる「射のネットワークの交差点」に過ぎないこと。
- 仮(け):
にもかかわらず、そこに一時的な対象として名前が与えられ、現象として現前すること。
- 中(ちゅう):
対象は実体がない(空)と同時に、確かにそこにある(仮)という、決して固定されないダイナミックな「パス(同一視)」そのもの。HoTTにおける「一意性公理(Univalence)」的な、等しさの躍動。
西洋の最新の数学や思想が、ようやく2000年前の東洋の直観(縁起や空)の構造的証明に追いついてきた、というのが思想史の面白いところです。
パスによる同値性の示し方
HoTT的な発想で言えば、三つの体系が「同じ」であることを示すのに、三者が一致することを直接証明する必要はない。AからBへのパス、BからCへのパス、CからAへのパスがあり、それらの合成が整合的であれば、三者の間の構造的対応が示される。しかもそのパス自体が一意である必要はなく、複数の異なるパスがありうる。パスの違いが「どのような意味で対応しているか」の質的な差異を記述する。
たとえば仏教の空と構造主義の「構造」の対応を示すパスとして、少なくとも二つの異なる道が考えられます。一つは否定的な道で、空が自性の否定であるように、構造主義も実体の否定から出発する。レヴィ=ストロースが「意味は差異の体系からのみ生じる」と言ったのは、意味の自性を否定したことに他ならない。もう一つは肯定的な道で、空が縁起と表裏一体であるように、構造主義も関係の網の目が存在を構成すると主張する。この二つのパスは同じ出発点と到達点を結ぶが、経路が違い、途中で見える風景が違う。これはまさにHoTT的な「等号の証拠の複数性」です。
三者の対応の具体的な構図
仏教的空論: 自性(svabhāva)の否定 → 縁起(pratītyasamutpāda)による関係的存在 → 中道(madhyamā pratipad)による有と無の超克
構造主義・ポスト構造主義: 実体・本質の脱構築 → 差異と関係の体系としての意味 → バイナリの脱構築(デリダ)による二項対立の超克
現代数学(圏論・HoTT): 元素・集合の脱特権化 → 射・関手による関係的対象規定 → 同値(equivalence)による同一性と差異の再概念化
この三列を見ると、各段階で構造的に類似した操作が行われていることが分かります。第一段階で「実体的な基盤」を外し、第二段階で「関係の体系」を基盤に据え直し、第三段階で「同一性と差異」を再定義する。
パスの具体例
仏教→現代数学のパス: 龍樹の帰謬論法(プラサンガ)は、自性を仮定すると矛盾が生じることを示す。これは圏論で「元素的な定義では構造が崩壊する」ことを示し、関手的な定義に移行するのと構造的に似ている。米田の補題が「対象の自性は空であり、他の一切との関係が対象を規定する」と読めることは、以前の議論で確認しました。
構造主義→仏教のパス: ソシュールの「言語には差異しかない」は、龍樹の「自性を持つものは一つもない」のかなり忠実な言語学的翻訳です。ただしソシュールは共時的な構造の記述に留まり、龍樹のように存在論的な主張にまでは踏み込まなかった。ここにパスの「長さ」の違いがある。
現代数学→構造主義のパス: 圏論のstructuralismとブルバキの構造主義は、名前が同じであるだけでなく、実際に歴史的な影響関係がある。ブルバキのメンバーとレヴィ=ストロースの交流は知られていますし、構造主義人類学の「変換群としての神話体系」という発想は、群論からの直接的な借用です。
「空」に対応する言葉がない問題
これは非常に鋭い観察で、おそらく二つの理由があります。
第一に、空は否定と肯定の両面を一語で担っている。 空は「自性がない」という否定であると同時に、「だからこそ縁起が可能である」という肯定でもある。現代数学にも現代思想にも、この両面を一語で表す概念がない。数学では「同値(equivalence)」が近いが、これは空の肯定的側面(関係による規定)しか捉えていない。デリダの「差延(différance)」は否定的側面(意味の不在の遍在)を捉えているが、肯定的側面が弱い。
第二に、空は実践的・体験的な概念でもある。 龍樹にとって空は単なる理論的命題ではなく、執着からの解放という実践的な意味を持つ。現代数学や構造主義にはこの実践的次元がない。univalence axiomは「同値な型は等しい」と宣言するが、それによって誰かが苦しみから解放されるわけではない。この実践的次元を含む概念が西洋の学問体系にないのは、知と行の分離という近代西洋の枠組みの限界かもしれません。
智顗の三諦円融との対応
ここが最も面白いかもしれません。智顗の空諦・仮諦・中諦の三諦円融は、三者が独立ではなく相即的であることを主張します。
これを三つの体系に対応させると、空諦は「いかなる体系も自性を持たない」(メタレベルの空)、仮諦は「それでも各体系は仮設として機能する」(各体系の有効性の承認)、中諦は「空と仮の同時成立そのものが真実である」(体系間の翻訳可能性と翻訳不可能性の共存)。
この三諦円融に対応する概念は、確かに現代数学にも現代思想にもまだないと思います。∞-トポスの理論が「異なるサイトが同じトポスを生みうる」ことを示すのは仮諦に近く、「トポス間のgeometric morphismが完全な同型でないこと」は空諦に近い。しかし両者が「円融している」という主張を数学的に定式化する概念はまだない。
名称が定着しない理由
特定の言葉がないのは分野の新しさと成熟の不足が大きいと思います。仏教哲学は二千五百年の蓄積があり、空・縁起・中道といった概念は何世代もの思想家によって練り上げられ、淘汰されてきた。圏論は百年足らず、HoTTは十数年の歴史しかない。ドゥルーズやデリダの概念もまだ半世紀程度で、定着したものと消えたものの選別がまだ終わっていない。
もう一つは、現代の学問が細分化しすぎていて、分野横断的な概念が生まれにくいことです。空は存在論・認識論・倫理学・実践論を横断する概念ですが、現代の学問ではこれらは別々の学科に分かれており、横断的な概念を提案しても「それはどの分野の概念なのか」と問われて居場所がなくなる。仏教・現代思想・現代数学の三者の間のパスを明示的に記述することで、三者を横断する概念の必要性と可能性を示す。そしてそのパスの記述自体が、まだ名前のない概念の「存在証明」になる。そのためにいは「具体的な一例を出すことが大切」を示して存在証明のようなことをするのが大切かもしれませんね。
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