2020年12月14日月曜日

やさしい現代哲学20201214

ポスト構造主義の説明を§1.から§3.までで終わらせた。 §4.で素朴実在論と構造主義論を説明する。 メタイデオロギー論であるポスト構造主義の理解は現代哲学マスターの必要条件です。 イデオロギー論である素朴実在論と構造主義の理解も現代哲学マスターのための必要条件です。 2つの必要条件がそろえば現代哲学マスターの必要十分条件になります。 §4.まで書き上げましたので次は2つ目の必要条件の説明をしていきます。 やさしい現代哲学 まえがき  現代哲学は難しそうに思われがちです。でもコツをつかめば誰にでも理解できます。コツをつかむにはきっかけが必要です。ダイヤモンドは世界一固いと思われています。しかしダイヤモンドをある方向からハンマーでたたくと簡単に砕けてしまいます。これはダイヤモンドは引っ掻いて傷がつきにくいという意味では確かに世界一固いのですが、劈開と言ってある方向から力をかけると簡単に割れてしまう面を持っているからです。  物事を理解することもダイヤモンドを砕くことに似ています。問題はどのような切り口からアプローチするかで難易度は簡単に変わります。ダイヤモンドをハンマーで叩く面や角度が分かればダイヤモンドは簡単に割れます。  何かを理解する時にはきっかけがあります。きっかけとは文字通り「切りかけ」がなまったものであり、何かを理解するというのは何かを切断するようなものです。切断するためには「切りかけ」なければいけませんが切りかけ方が悪いと切れるものも切れません。つまり簡単なものも理解できません。でも切り方が分かれば切れるのです。  2600年、古代インドでお釈迦様は仏教を作りお広めになり全アジアに大きな影響を与えました。東洋文化は仏教を基底としています。教えを説明するのに相手によって説法の仕方を変えました。後の世の人はお釈迦様が教えを説いた時期と説いた相手により経典を分類していますが愛手によって説明の仕方を変える事を方便と言いました。お釈迦様の教えは現代哲学と同じものと言われています。  本書では通俗的な例えを使って現代哲学をイメージできる様にしました。著者は4人の子供がいて子供たちに勉強を教えています。小中高の勉強を振り返ってみると大学で国語数学理科社会の教科をより深く(基礎から)より広く(発展させて)勉強した人から見ればほとんど嘘を教えているようなものです。基礎を説明もなく暗記させますし複雑にしないため大切な部分を省きます。結果として単純で解りやすいものがのこります。それはもう学問の原型を残さず別の形に変わっています。しかしそれでいいのです。子供の発達とはそういうものです。まず数を覚えさせ計算を覚えさせます。それなしに数とは何か、計算とは何かを教えるのは有害でしかありません。そもそも数や計算が何かと言うより大学ではそれを作って定義することから始めます。数や計算を知らずにその作り方から説明しても子どもには理解できず、かといって数や計算のイメージを持つ事も出来ず、何もできない子供になり不幸な人生を送るでしょう。大切なのは順番です。  現代哲学も順番が大切です。順番が大切ですがどういう順番がいいかは人それぞれです。それはお釈迦様の方便と一緒です。本書の切り口は現代哲学のイメージを作ることです。なぜそうなのかの説明は二次的なものとして結論を示します。前提として現代哲学のイメージを持っていない人に説明から始めるのではなく現代哲学の形を示します。現代社会は現代哲学神話的な社会ですので勘がいい人はそれだけで何かを悟る人もいるでしょう。ただダイヤモンドの専門家でもない人がたまたまダイヤモンドをハンマーで叩いてダイヤが割れたとしてもただの偶然かもしれません。しかしダイヤモンドの専門家に調べてもらって正しい方向から正しくハンマーを振り下ろせば割ることが出来るでしょう。現代哲学と言うダイヤモンドもそれと同じです。  仏教の核心は大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論、それをまとめると天台宗の中興の祖天台智顗の三諦論でそれを基本に東洋思想と東洋社会は作られました。それと同じように現代思想も、そして現代の社会も科学技術も現代哲学から作られています。  地球の大部分、70%以上を形成するのはマントルであり、マントルはかんらん岩でできています。そのマントルの中で作られるのがダイヤモンドです。ダイヤモンドは一番固くて傷つきにくいうえに屈折率も一番高いので一番輝く宝石であり「宝石の王様」と言われています。  現代哲学もマントルにおけるダイヤモンドの様に全ての知の結晶です。現代以前の全ての知の集大成から生じてカットして磨いたダイヤモンドが光を全ての方向に放つようにそこから放射して現代の全て思想、科学、技術を作る知の原石です。  本書が人類が到達した知の深層にたどり着くための道しるべになって多くの人が現代哲学を分かったと感じられるように祈り本書を執筆します。 §1. もう考えるのはやめよう!  「我考える、ゆえに我あり」「人間は考える葦である」、デカルトとパスカルの言葉です。意味はともかく人間は考えるものだということを言っています。  好奇心のおもむくところ、知りたいと思う心があるとき人は何かを考えます。考えようと望まなくても考えていると自分で意識しなくても人は何かを考えています。その「何か」は広範囲におよび、人が考えられる限りの全ての領域に網羅するようです。  人が考える事の中で究極のものと考えられたのが「真理」、とか「法則」などと呼ばれるものです。正しくて確かで全てのことを説明してくれる知の到達点です。「真理」や「法則」が分かれば全ての知りたいことが分かります。知りたいことの説明もつきます。間違っていないと主張できます。  「真理」や「法則」は宗教や哲学の専売特許でしたが途中から自然科学が参入しました。哲学は人文科学で研究されるようになります。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では「宗教」は「心理」や「法則」を知っているのは全知全能の神のみであると考えます。神は正しく全てを知っています。そもそも全ては神がつくったものです。議論の余地はありません。  哲学は「考える」ことによって「真理」や「法則」を研究します。その結論をまとめたものが現代哲学です。  現代哲学の結論は「もう十分に考えた。これ以上考えても仕方がない。もう考えるのは止めよう」というものです。この場合「考える」とは「探求する」ということです。  哲学が探求する「究極の真理」は何千年も天才から普通の人まで膨大な数の人類が追求してきたことです。そのため議論が出尽くしてしまった、と見なされるようになりました。 議会や会議で例えてみましょう。例えば古代から現代までの人類の天才たちが集まって会議をしたと考えます。その場で「真理」とは何か「「これ以上議論しても仕方がない」という感じです。議会や企業の会議で言えば「議論は出尽くした。決を採ろう」となります。学術的な議論の場合は決を採る必要はありません。 それでは会議や議会はムダかというとそうではありません。有益な点があります。持っている議論の材料を出し尽くすことが出来るかもしれません。また違いを知ることが出来るかもしれません。そして「ここまでは合意出来る」という共通点を見つけることが出来るかもしれません。つまり議題に対して「全会一致の結論が出る」までの有益性はないにせよ、「ここまでは全員が賛成できる」という部分的な合意は出来るかもしれません。合意できる全員の一致点を明確にすることは一つの情報になります。会議や議会が全く無駄なものに終わるか有益かどうかはケースバイケースです。哲学の場合は一致点を見出すことができました。 哲学が探求してきた「真理」や「法則」についての一致点をまとめて表現したものが現代哲学です。現代哲学は「これ以上考えても仕方がない」かどうかについて明確に判定します。同時に「全員一致の結論が出る」部分についても明確に判定しています。別の面から見ると哲学という学問の最低限の常識を示すことに成功しています。 その常識は何か。哲学では「有無を問う」「ある場合にはそれがどんなものかを問う」ことが問題になります。 哲学の最終的な答えは全員が合意できる「真理」や「法則」が有るか無いかは分からないというものです。そして例えそれが有ったとしてもそれがどういうものかは分からないというものです。  ここから現代哲学の1つ目の結論が導き出されます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。  これが現代哲学の1つ目の結論です。  次のセクションで2つ目の結論を示しましょう。 §2. これからは作っていこう!  §1の結論について別の見方をしてみましょう。  やはり人類の天才たちの会議を例に考えてみましょう。 「有無」「何か」「どういったものか」という問いをするとき、我々は既にある何かを念頭に置いています。§1で現代哲学が出した結論は「そういう問いへの答えは分からないので考えても仕方がない」というものです。真理や法則のようなものが「有る」「無い」「何々とは○○というものである」「どのようなものかというと○○というものである」と提案しても全員の意見の一致は得られません。もし一致があるとすると全員が棄権する場合です。もし全員棄権全会一致で何らかの合意が得られてもそれは正しさや確かさの保証にはなりません。多数決は決めるためのもので正しさや確かさを確認するためのものではありません。多数決では分からなくても決める事は出来ます。何しろ多数「決」と言うくらいです。これは悲観的な結論に見えるかもしれません。こんな結論受け入れられないと思う人もいるかもしれません。 しかし分かることが出来ずに決めることしかできないと書くと否定的に聞こえますが、逆に言えばもう分かろうとする必要がなく、決めることが出来るので決めることに専念すればよいと考えてみるとどうでしょう?今まで分かることに気を取られ過ぎて「決める」ことについては考えてこなかったとも考えられます。分からないことは考えずに決めることに全てを費やし集中的に考えてみます。すると決めることで新たな世界が開かれることが分かります。 物事はコインのようなもので表と裏は切り離せません。表裏をいい面と悪い面としてみましょう。コインが表裏一体のごとく物事のいい面も悪い面も同じものの別の側面に過ぎません。いい面があるゆえに悪い面があり、悪い面があるゆえに良い面があります。悪い面をなくすといい面もなくなり、いい面をなくすと悪い面がなくなります。ピンチの後にはチャンスありと言います。失敗は成功の基とも言います。    会議の反対は議会です。議会は法律を作るところですがもっと広く言うとルールを作るところです。過去から現在までの人類の天才たちを集めて議論しても「真理」や「法則」があるのかどうか、あるならどんなものなのか分からないというのが§1. の結論でした。何が確かか正しいか分からないことが分かったのだからもう考えるのをやめて自分たちで確かで正しいものを決めるというのが現代哲学の2つ目の結論です。  本当に必要なのか分からない会議に参加させられて不毛な議論にうんざりした経験のある方は多いでしょう。それは法律を作る議会のようなものです。§1では考えるのをやめようという結論について書きましたがそれは何も考えなくてもいいということではありません。「正しく確かなものを発見して証明する」ということから「正しく確かなものを作って機能を検証する」ことに考える事が変わっただけです。 この様に前提を替えてみると「正しさ」や「確かさ」などの言葉や概念は根本から見直す必要があります。もし「正しい」とか「確かな」という言葉を使うのであれば現代哲学のやり方で定義しなければいけません。そもそも「正しい」とか「確かな」という言葉や概念は現代哲学では必要ない可能性も出てきます。また「定義」という言葉も掘り下げると現代哲学では定義はするものであってされているものではありません。 そこで現代哲学では決めること、そして決めることを作ることが重要になります。度々議会を例えに使いますが議会で法案を作成し法律を成立させるのに似ています。現代哲学ではアイデアは発見するものではなく発明するものです。何かもうあるものを吟味するのではなく何かまだないものを構築します。 §1.で会議で全会一致の合意ができないものは切り捨てる話をしました。そこから「分からないものは考えない。考えても仕方がないものは考えない」という現代哲学の1つ目の結論を導きました。 しかしここから得られる教訓はこれだけではありません。全会一致できるものがないことが分かっても人間が考える生き物であることに変わりはありません。しかし「真理」や「法則」を発見しその正しさと確かさを保証するために頭を考えてるのはもう止めるというのが現代哲学の結論でした。分からなくても人間は決めることが出来ることも分かりました。そこで導き出る現代哲学の2つ目の結論は「全員一致で合意できない場合には全員一致で合意できることを作ってしまえばいい」というものになります。考えることを分かることではなく作ることに振り替えます。  ここで§2.で説明したことをまとめてみます。これが現代哲学の2つ目の結論です。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 §3. ポスト構造主義  §1.と§2.の結論を並べてみます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 もったいぶって長々しいと分かりにくくなることがあります。ですから最初からはっきりさせると①と②はポスト構造主義と呼ばれる考え方です。「ポスト構造主義」という名称は構造主義の後の思想という意味ですからそこから内容を推測することはできません。①と②をまとめてみると「真理や法則というものは分かるものではない。決めるものである」ということになります。  では何を真理や法則と決めましょう。大きく分けて2通りです。1つ目は自分で決める作ること、2つ目は既にあるものを借りてくることです。  この1つ目の「作る」ことがポスト構造主義の3つ目の特徴になります。この特徴と2つ目の「借りてくる」をまとめて、 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  これが現代哲学の3つ目の結論になります。  現代哲学はポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の3つの考え方から成り立っています。特に①②③はポスト構造主義の考え方になります。素朴実在論と構造主義については後の章で取り上げます。  §1.と§2.では人類の歴史上の天才たちの会議と議会の例えを使ってきましたので§3.でもその例えを使って考えてみましょう。  天才たちは真理や法則の候補をどんどん提案します。それを議論してどれが本当の真理か法則かを決めていきます。  心理の候補となるのは宗教た人類が目下構築中の自然科学、色々な哲学者が作った哲学  人類の歴史上の天才たちが集まってこれらの真理や法則候補を吟味します。  心理や法則の候補として有力なものは法案として議会に挙げて議場で議論し法律として採択します。  この天才たちの議会と懐疑に①を適用してみます。すると― どんなに話し合ってもどれが真理か法則かは分からないので議論しても仕方がないということになります。  議論しても仕方がないとはどの提案も真理・法則であるという結論は出せないということです。これは天才たちの頭が悪いせいではなくもともとそういうものである、と言うのが①が言っていることです。  これで終わらないのが②です。真理や法則はそもそも決めるものであって決まっているものではない、とイメージしてもらえばいいでしょう。 ①②を合わせるとあるのかどうか、あるならばどのようなものか我々には分からないが決めることはできる、ということを言っています。意志と決断の問題と言っているのです。 会議と議会の例で考えてみましょう。会議や議会では議論が行われます。議論をすることは考えることや分かることと一緒です。会議は議論するだけの場合もあるが決を採る(採決)、議決する場合があります。これは何かを決めることです。議会でいえば法案の議論から決を採り法律を制定することになります。 何かを決めることは決めたことが良いか悪いかや、正しいか間違っているかとは別の問題です。どんなに天才が話し合って決めた事でも間違っている場合もあります。実行したらとんでもないことになることを会議で決めてしまう場合もあるでしょう。議会であれば法治国家が機能していればとんでもない悪法でも施行されてしまいます。そもそも正しいか間違っているか、良いか悪いかが分かっていれば会議や議会など必要ないのかもしれません。正しい結論、良い結論が分かっているのにそれを実施させないために会議や議会を行い、悪い、間違っている結論を会議や議会で決めてしまう人たちもいるかもしれません。 ②は意志や決断が大切であり、人間に出来ることはそれしかないとも言い換えることが出来ます。議会や会議で決めたから決まったことが正しいとか良いとは言えないのです。決めること自体と決めたことの良否や正誤は別問題ということです。 直接民主制でも間接民主制でも議会制度とは議場を提供し議論するという機能と議決し法を制定するという異なる2つの機能を持つと考えます。考え、判断・決断し、行動し、行動の結果を受け入れる(責任を取る、尻(ケツ)をとる)ことを主体性とすると主体性を持った人が議会を形成するべきであるというのが自由主義的民主主義の考え方です。選挙権、被選挙権を持つ、議会の決定に関わる人は主体性を持った人で構成するのが理想です。極論をするとこの場合、主体性を持っても明らかに最良で最善な結論があるにもかかわらずそれを理解できない人が多ければ議会では最悪な決議がなされてしまうこともあり得ます。それでも②は人間には決める能力があると結論しています。たとえそれが最悪な選択肢であってでもです。  人間が決めることが出来るということは、決めることがどんな考えに基づいているとしても、決断(や判断)し、行動し、結果を残すことが出来るということです。  ここで①に返りましょう。人間は心理や法則について考えても有無、良否、正誤について分からないというものでした。そういったことを考えても仕方がありません。真理や法則にが分からないのであれば、分かるような真理や法則を作るというのが現代哲学の3つ目の結論です。  「正しい」や「確か」という言葉の意味を定義し、定義に合うように真理や法則を作ることに方向転換します。そうすると「真理」や「法則」は作られたものになります。これは決めた人々とって定義された「正しさ」「確かさ」を満たされていればよいのであって、これを決めた人々にとってだけの真理や法則です。そう決めることに同意しない人々にとっては正しくも確かでもありません。ですから昔ながらの意味の「真理」や「法則」とは異なるものと見た方が良いでしょう。異なるものには別の名称を付けた方が良いので「真理」の代わりに「公理」という言葉を、「法則」の代わりに「公理系における定理」という言葉を使ってみます。みんなにとっての真ではなく決めた人々にとってだけ正しく確かであればいいのですから「真」ではなく「公」という字に代えてみます。公理は人工的なものです。別にそれを公理と決めたくなければ認めなくても構いません。他人が公理と認めないのも自由ですし、自分が状況に応じて公理と認めたり認めなかったりしても構いません。つまり誰かに承認される必要はないですし、いつでもどこでも一貫してそれを公理と認め続けなければならないというものでもありません。約束事でありルールですから深遠な神学や哲学と言うよりはゲームやスポーツのようなものです。自然言語よりはプログラミングや通信の規格のようなものです。探求する科学より想像する工学、調査するノンフィクションより想像するフィクションのようなものです。  「決める」場合に何を決めるかについて上記は数学や自然科学の場合です。他に宗教や天才哲学者の哲学について考えてみます。  宗教の例としてキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などを考えてみましょう。これらの宗教は唯一の神がいて神は絶対で万能で全てを作り何もかも知っている存在です。人間は不完全な存在で神の様にはなれません。この場合人間が決めることはそのような神を信じるか信じないかです。また神の言葉が描いているとされる聖書を信じるか信じないかです。まとめると「神と聖書を信仰する」ことを決めるか決めないかです。「信じると決める」か「信じると決めない」かです。後者の「信じると決めない」ということは「信じないと決める」ことも含みますが、「信仰するかどうかを決めることをしない、あるいは保留する」や「信仰するかどうかに興味がない、どうでもいい、問題にする必要を認めない」などの場合を含んでいます。現代哲学のスタンスでは宗教に限らず何かを信じるか信じないかどうでもいいから問題にしないかを決める、ということに言い換えられます。  現代哲学では決めることが大切なので、信じる人は信じると決めたらその人にとてってはそれが真理と決めることになります。ただ注意点として聖書や神を真理と考えても、他にも真理がある可能性もあり、それも同時に信じることも出来るかもしれません。他の真理が神や聖書と矛盾していても人間は矛盾したことを信じられる性質を持っています。他の例として神も清書も否定すると決めるのも好例で、これは無神論になります。神や聖書が真理かどうか分からないと積極的に決めた場合は不可知論と言います。その他「神や聖書や心理や法則はどうでもいいと決める」立場もありこれはお釈迦様の考え方です。原始仏教の経典に簡単に書くと「そんなこと考えるよりも修行しろ」とお釈迦様が仰られたとの記載があります。  では宗教ではなく過去の色々な哲学者の哲学について考えてみましょう。哲学は真理や法則を探求しようとする姿勢がありました。そして哲学者によって考えられたのが色々な理論や仮説です。よくできた理論や仮説についてはそれを真理や法則としてしまっていいのではないかと考える人、実際に真理や法則と考えた人もいたようです。後者は何かの「理論や仮説を真理と信じる」と決めたことになります。無意識の決心かもしれませんが人間は沢山の無意識の決心がある、言い換えると「人間は知らない間に何かを信じているが、自分ではそれに気が付いていない場合がある」ということになります。  真理や法則を「決める」ことが必要であるなら何を正しく確かなことと決めるかの選択になります。そのため科学、宗教、哲学などの例を見てきました。  科学の場合は理論や観察・観測を正しいものと決めます。この場合理論は誰かが作ったものです。発案者にとっては自分で作ったものを決める対象に出来ますが、それ以外の人はその発案者の発明を借りてきて決める対象にします。  宗教の場合は教義を作った人々が分かるのであれば彼らは自分たちで作ったものを決める対象にしますがそれ以外の人々はそれを借りてきて決める対象にします。  哲学の場合は哲学理論を作った哲学者はそれを決める対象に、それ以外のその哲学理論を決める対象に人々はその理論を借りてきて自分の決める対象にします。  §1.と§2.と§3.の特徴をまとめて再述します。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。 ② 確かなもの正しいものは決めることが出来る。作ることも出来る。 ③ 人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る。  そもそも本当は何も正しいもの、確かなものを特定する必要はない可能性もあります。正しいもの、確かなものに執着するのは現代哲学より前の思想の特徴です。  そういう意味では①②③は現代哲学の外から見た現代哲学の見え方です。   次の章でポスト構造主義を簡単にまとめます。その後の章で現代哲学の3本柱のうちの2本(1本はポスト構造主義で3本のうちの大黒柱)を説明します。 §4.ポスト構造主義    いつもの通り結論から書くと「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」です。  前章までで真理、法則、正しいもの、確かなもの、公理、定理、理論、観測・観察、宗教の教義と色々な言い方が出てきました。その候補として上げられるものはひとまとまりの考え方です。これをイデオロギーとここでは呼びましょう。日本語に訳すとイデア+ロゴスですから思想や倫理といえるかもしれません。思想や倫理とは広くは人々の思いなしであり、合理的、論理的なものはごく一部です。「理」とは「璞を磨いて現れる模様」が語源です。模様とは図でありグラフでありもっと言えば絵です。「絵」には正しいとか確かだとかは関係ありません。同じような語源論法を使うと「論」とは「言」と「侖」の会異形成文字で竹簡を集めることで文章や発言のまとまりの事です。「議」とは「言」と「議」を組み合わせた会意形成文字です。「義」は更に「羊」と「我」という二つ文字からできています。原義は神のために捧げる羊を正しく切り分けること」で転じて正しい判断という意味になります。漢字を形成する最小単位を「文」、文を組み合わせて出来る漢字を「字」と言います。「議」は「言」+「羊」+「とは判断するということで「議」とは言葉を使って正しい判断を行うことを表します。理論とは、(1)「絵」を文章にすること、あるいは②「理」と「論」つまり絵と文章を使って表現されるもの、つまり説です。「説」は「言」と「兌」の会異形成で「論理とは2つの意味、一つ目は「論」と「理」、文章と絵を使って表すことあるいは表さ「兌」ははがすの意味でので「説」言葉ではがして中身を出すということです。「論理」とは「論」の理、つまりその論がどのような構図になっているかを示すことです。合理とは「理に合うこと」つまり絵や構図やグラフ、言い換えれば関係性に合っていることを表します。  イデオロギーという言葉は科学や哲学の理論や仮説も指しますが、「生き方のスタイル」「行動のポリシー」など単にその人が個人的な嗜好で決めた正しいだとか確かだとかは関係ない考えや意図なども含みます。普通、イデオロギーというのは現実と関係します。例えば物理学の理論は現実の観測結果を矛盾なく説明するためのものです。宗教の教義はその人の現実の言動や行動を戒律に合うようにさせるでしょう。個人的なスタイルやポリシーも同様で現実の何かから影響を受けて形成され、形成されたスタイルやポリシーに従って現実を生きます。大まかに前半は理由を説明するためのもの、問題に答えを与える説明体系であり、後半は思考、感情、意志、行動などにおける実践方法を示したものです。    最初の「ポスト構造主義とはイデオロギーのイデオロギー」というテーマに戻りましょう。言い換えると「ポスト構造主義とはイデオロギーに関する理論である」ということになります。  イデオロギーの研究は他にもあります。そしてイデオロギーに関する色々な理論や説があります。ポスト構造主義もその一つです。イデオロギーに関するイデオロギーをメタイデオロギーと呼びましょう。ポスト構造主義はメタイデオロギーです。メタイデオロギーに対して普通のイデオロギーは現実と関係があるので世俗のイデオロギーと呼びましょう。これはmetaphysics、physicsと呼ばれる形而上学や形而下学と似ている様に見えますが特に関係がないので誤解がないよう注意として挙げておきます。  ポスト構造主義のイメージを膨らますための例示をしていきます。 メタイデオロギーであるポスト構造主義の特徴として「どれか特定のイデオロギーを特別視することはない」というものがあります。これをイデオロギーについての相対主義と呼びます。相対主義以外にはどれかどれかのイデオロギー絶対視するイデオロギーの絶対主義というものがあります。これは特定のイデオロギーが正しく確かであるとする考え方です。イデオロギーが理論や仮説であれば真理や正しく確かな法則に格上げします。生き方に関するイデオロギーが正しく確かであるということであれば「こう考えこう行動しなければいけない」「こう考えてこう神津してはいけない」という風に生き方を強制します。ポスト構造主義はある特定のイデオロギーの絶対化を行わないため、現代哲学を勉強してマスターし現代哲的な生き方をしようと決めた場合、どれか特定のイデオロギーに盲従することはなくなります。現代哲学ではどれか特定のイデオロギーを推奨することも排除することもしません。イデオロギーはみな平等です。特にどれが正しくどれが確かだという見方をしません。そんなことは考えても仕方がないことだと考えます。その代わりにその時々、場所や状況に応じて自分の従うイデオロギーを自分で決めます。その状況に合ったイデオロギーがなければ作り、あれば借りてくればよい訳です。適当なイデオロギーが見つからず選択できなければその様な知的な作業を行わず気の向くままに考え行動することもあります。 現代哲学ではどのイデオロギーを選択してそのルールに従って行動するかは完全に自由です。損益やコストパフォーマンスを高めるなどの条件があればそれに適したイデオロギーを選べばいいですし、特に条件がなければ気まぐれに、あるいは直感で、あるいは嗜好でイデオロギーを選択する、あるいはイデオロギーの選択ということを考えずなすがまま、成るようになるよう、出たとこ勝負で考え行動してもいいでしょう。 どのイデオロギーを選択するか、あるいは選択しないかは自由です。複数のイデオロギーを選択するのもあり得ますし、選択したイデオロギー同士が矛盾していても矛盾する両方のイデオロギーを同時に選択することも出来ます。このようにポスト構造主義のイデオロギーの選択の自由をメタ自由主義と呼びましょう。「選択」という言葉を使っていますが、これは前のセクションまでの「決める」と同じ意味です。ただの自由主義ではなくメタ自由主義と呼ぶのはこれがやはり一般的に言われる自由主義とは異なるからです。一般の自由主義とは世俗のイデオロギーの自由主義を指します。具体的な世俗のイデオロギーは現実と関わるため自由に現実的な制限があります。メタ自由主義は現実と関係ない観念としての自由主義であるため現実の制約がありません。怖い程に自由です。この現代哲学の自遊空間には世俗的イデオロギーの集合があってどれをどの組み合わせで選ぶかが自由です。そこであるイデオロギーを選択するかしないかは選択肢になります。採決し採択した選択肢を採用するわけです。 現代哲学をマスターするということはこれらを意識し自覚的に実行できる能力を持つということです。 ポスト構造主義では何でも決めていい、選択してもいいと書きました。現代哲学に他に必要なものはメタ認知と自覚です。 メタ認知とは自分が思考上、イデオロギーの採用を行っていることを自覚している状態です。客観的、あるいは俯瞰的な目で自分と自遊空間、選択肢、選択肢を決める作業を行いそれを自覚するということです。 「随処に主となれ」これは仏教の言葉です。いつでもどこでも自分が主体となりなさいと言う意味です。「いつでもどこでも自分が主体となりなさい」と言う意味です。現代より前の真理探究は㋐「何かによって何かが決まっている」、㋑「何かが何かを決めている」という意識があり、「それを探求し証明するのが人間だ」という形式から成り立っています。具体例でいうと㋐の例は「神が世界の全てを決めている」、㋑の例は「自然の究極の法則があり、それが世界の全てを決めている」などです。 この形式を別の視点で見ると主たる何かがあり、自分はそれに対して従の立場にあるという姿勢が隠れています。現代哲学はこれの逆の立場を取ります。つまり自分が主で自分が決める何かは従となるということです。従になる「何か」とは現代哲学でははイデオロギーを指します。現代哲学から見れば、現代哲学より前の「イデオロギーがあって人間がそれに従う」のではなく「自分がイデオロギーを従える」という見方になります。より詳しく言うと「必要であれば自分がイデオロギーを選んでそのイデオロギーに従うと決める」ということになります。言い換えると自分がどのイデオロギーを選ぶのか決めます。 ここでもう1つ強調したいのは「必ずしも人間は従うイデオロギーを決める必要がない」ということです。イデオロギーを決めるということは故意の行動になりますが、別に人間はわざわざイデオロギーを決めなくてもよい場合があるということです。「良い場合がある」どころか「決めなくてもよい場合の方が多い」と言ってもいいかもしれません。何らかの理由でイデオロギーを決めようと思った場合にのみイデオロギーを選べばいいわけであって、決めようと思わない、あるいは決めるのを避ける場合にはイデオロギーを決めないことが選択肢になります。この「イデオロギーを決めない」ことも現代哲学の大切な考え方です。 イデオロギーを決めるか決めないかは任意で、決めない方が自分にとって幸福な場合や不幸を避けれる場合もありますし、決めたことで不幸になったり幸福を失う可能性があります。ですから「イデオロギーを決めない」選択も忘れないようにしましょう。 では「自分が従う立場になる、自分より上の主に当たるものはないのか?」という問いを立ててみましょう。これに対する現代哲学の答えは§1.の①、「分からないから考えても仕方がない」になります。 ここまで一口にイデオロギーと言ってきましたがイデオロギーについてもっと具体的に考えてみましょう。イデオロギーを決めるということはそのイデオロギーに従った思考や行動をするということになります。さてイデオロギーをどうやって見つけたらいいでしょう? それは§3.の③「人間は②の決める対象を作ることが出来る。あるいは借りてくることが出来る」を適用します。つまり新たなイデオロギーを作るか、すでに知っているイデオロギーを借りてくるのです。既にあるイデオロギーを借りてくる場合のイデオロギーは自分が前に作ったものであったり、他の誰かが作ったものであったり、出所不明なものであったりします。何であってもそれを自分のイデオロギーにしようと思えばすれば良い訳です。 では自分が決めたいと選びたいと思うイデオロギーが思いつかない場合はどうしたらいいでしょう? まあなんでもそうですが過去の勉強は大切でいろんなイデオロギーを勉強して知っていなければ何かの理由で何かのイデオロギーを選びたい場合でも適当なイデオロギーが思いつかないかもしれません。イデオロギーを決めたい理由が出来てからイデオロギーを探すのが1つの方法ですが、見つからない場合には§3.③に含まれているもう一つのルール、「作ることが出来る」から自分で作るのが解決法になります。③は何らかのイデオロギーを作れることを保証しています。現に今あるイデオロギーのうち、出所が確かなものはたくさんあります。沢山のイデオロギーが昔の人々によって作られましたし、今もこれからも作られていきます。「イデオロギーを作る」ための難点はイデオロギーを作る能力が必要なことです。この場合の能力には「時間」や「労力」を含めることにします。“能力”ですので過去の勉強や教養がとても大切で時に歳を取ってから「若いうちに勉強しとけばよかった」とか若い人に「若いうちにべんきょうしとけ」という年配者の存在からこれは分かります。とにかく借りてくるイデオロギーが見つからないけれどもイデオロギーを決めたいと思う人のもう一つの方法は「自分でイデオロギーを作ること」になります。 §4.以降は「イデオロギーの借り方と作り方」がテーマになります。そのために「素朴実在論」と「構造主義」の勉強をします。ポスト構造主義が現代哲学の骨格をなすものであるとすれば、「素朴実在論」と「構造主義」はイデオロギーを分析したり理解したりするのに必要です。全てのイデオロギーはこのどちらか、あるいは両方で作られて行っても過言ではありません。「素朴実在論」と「構造主義」を学ぶことでイデオロギーの分類が出来ますし自分で作る時の参考になるでしょう。 §4.メタイデオロギー論からイデオロギー論へ   §3.まではポスト構造主義とは何かについて書きました。 ポスト構造主義と構造主義と素朴実在論は現代思想の三本柱ですが中でもポスト構造主義が支柱です。ポスト構造主義が分かれば現代哲学は分かったと言ってもいいかもしれません。ポスト構造主義はイデオロギーに関する理論です。ポスト構造主義が分かれば現代思想がイデオロギーをどう見ているかについて納得がいくでしょう。イデオロギーに対する姿勢も分かります。ポスト構造主義が分かっていれば現代哲学についてある程度分かっていると誇っていいでしょう。構造主義や素朴実在論の知識が曖昧でもです。人間はイデオロギーの操り人形ではありません。人形遣いです。イデオロギーが人形遣いで人間が人形であるわけではありません。  人形であること、人形遣いであることはどちらがいいとか悪いとかは言えず、どちらにもいい面、悪い面があるかもしれません。ですからイデオロギーが主で自分が従である状態を単に受け入れる方が幸福である場合もあるでしょう。しかし人形遣いになるなら人形の操り方とこの場合操る道具の人形について勉強しておくに越したことはありません。人形遣いの仕事は人形を操ることですが、§3.の③にイデオロギーを作るこが出来る事を書きました。これら人形遣いによる人形の研究、つまり現代哲学におけるイデオロギーの研究とイデオロギーの使い方、イデオロギーの作り方について理解を深めることに相当します。現代哲学を指針に生きることは主となることに相当します。  ポスト構造主義が分かれば現代哲学の半分は分かったと言ってもいいと思います。 これは現代哲学の習得の必要条件で場合によってはポスト構造主義のマスターだけでもいいかもしれません。  しかしポスト構造主義のマスターではなく現代哲学のマスターになろうと思えば残りの2本の柱である素朴構造論と構造主義の理解が必要になります。これを理解すると残りの半分を理解したことになり現代哲学のマスターの必要十分条件を満たすことになります。本書ではまず哲学の歴史の到達点であり総決算であるポスト構造主義のマスターを先に行ってもらうように企図しました。西洋の哲学の歴史を振り返ってみると全てがポスト構造主義に至るための過程であったと総括できます。つまり帰納的にポスト構造主義に収斂(収束)し哲学全ての原理となりました。本書は現代哲学の説明や成り立ちの解説ではなくイメージを持ってもらうことを意図して書かれています。ですので原理となったポスト構造主義から出発して演繹してそこから生じる全ての結論や運用方法を説明するように書かれています。ですが実際の哲学の歴史を見ると素朴実在論がまず暗黙の前提として気付かれぬまま存在し、それを批判する形で構造主義が見出され、その両者を相対化させて両立させる、弁証法と言う方法でいえば止揚させるためにポスト構造主義が生まれました。  素朴実在論と構造主義はどちらもイデオロギーの根底をなすものであり、イデオロギーはそのどちらかから成り立つか、その両方を同時に満たすように成り立つか、場当たり的にその両方をまぜこぜにして作られている場合が殆どです。どちらにも全く関係していないとすれば思考ではなく感情や意欲によって成り立つ神秘主義や本能のままに行動する刹那的な生き方か、思考する間も与えられるまま決断を繰り返さなければいけない切迫したスポーツや戦闘、仕事、生活、芸術等の場面などが挙げられると思います。これは思考をほとんどしない、あるいは出来ない場面で現れるあり方です。本書は哲学の思考を扱う面を重視し、イデオロギー論、メタイデオロギー論を主軸として議論を展開し、知情意のうち知である思考以外の感情や意欲などの情意については簡単に説明します。つまり西洋哲学は素朴実在論、構造主義、ポスト構造主義の順番で始まり発展し終焉しました。  他方で初めから、ポスト構造主義、構造主義、素朴実在論の全てを兼ね備えて出発したのが仏教です。釈迦から始まり根本分裂、枝葉分裂と何回か混乱しますが大乗仏教の成立にて最初の根本に返ります。これをナーガールジュナ(漢字で龍樹の空論、中観論といいます。また中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗の三諦論(空、戯⦅仮、色ともいう⦆、中の3つの論から成る理論もそれにあたります)しかしその後の歴史はその根本が忘れられたり思い出されたりの繰り返しでした。いわゆる東洋思想は仏教の影響を強く受けているので現代哲学的な要素が繰り返し現れるように見えます。仏教では教えの核心に到達することを悟りとか解脱といい悟った人を仏陀(覚醒者)といいます。おそらく仏教の歴史上有名、無名を問わず悟った人がしばしば現れたのでしょう。  ポスト構造主義については前の三章で説明しました。次章からは素朴実在論と構造主義について説明していきます。 §5.素朴実在論と構造主義

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