2020年12月7日月曜日

§2.分かることからこと決めるへの転換 現代哲学の§1.の続き。 既存のものとしての真理や探究に思考を使うことを放棄した第一章。 ポスト構造主義の核心の2つ目。 既存の何かの発見や保証のパラダイムから、未知の何かを創造し決定するパラダイムへのシフトについて書いた。 まだ書きかけ。 説明や解説をせず描写や比喩でイメージづくりをしてもらう。

§2.分かることからこと決めるへの転換 現代哲学の§1.の続き。 既存のものとしての真理や探究に思考を使うことを放棄した第一章。 ポスト構造主義の核心の2つ目。 既存の何かの発見や保証のパラダイムから、未知の何かを創造し決定するパラダイムへのシフトについて書いた。 まだ書きかけ。 説明や解説をせず描写や比喩でイメージづくりをしてもらう。 やさしい現代哲学 まえがき  現代哲学は難しそうに思われがちです。でもコツをつかめば誰にでも理解できます。コツをつかむにはきっかけが必要です。ダイヤモンドは世界一固いと思われています。しかしダイヤモンドをある方向からハンマーでたたくと簡単に砕けてしまいます。これはダイヤモンドは引っ掻いて傷がつきにくいという意味では確かに世界一固いのですが、劈開と言ってある方向から力をかけると簡単に割れてしまう面を持っているからです。  物事を理解することもダイヤモンドを砕くことに似ています。問題はどのような切り口からアプローチするかで難易度は簡単に変わります。ダイヤモンドをハンマーで叩く面や角度が分かればダイヤモンドは簡単に割れます。  何かを理解する時にはきっかけがあります。きっかけとは文字通り「切りかけ」がなまったものであり、何かを理解するというのは何かを切断するようなものです。切断するためには「切りかけ」なければいけませんが切りかけ方が悪いと切れるものも切れません。つまり簡単なものも理解できません。でも切り方が分かれば切れるのです。  2600年、古代インドでお釈迦様は仏教を作りお広めになり全アジアに大きな影響を与えました。東洋文化は仏教を基底としています。教えを説明するのに相手によって説法の仕方を変えました。後の世の人はお釈迦様が教えを説いた時期と説いた相手により経典を分類していますが愛手によって説明の仕方を変える事を方便と言いました。お釈迦様の教えは現代哲学と同じものと言われています。  本書では通俗的な例えを使って現代哲学をイメージできる様にしました。著者は4人の子供がいて子供たちに勉強を教えています。小中高の勉強を振り返ってみると大学で国語数学理科社会の教科をより深く(基礎から)より広く(発展させて)勉強した人から見ればほとんど嘘を教えているようなものです。基礎を説明もなく暗記させますし複雑にしないため大切な部分を省きます。結果として単純で解りやすいものがのこります。それはもう学問の原型を残さず別の形に変わっています。しかしそれでいいのです。子供の発達とはそういうものです。まず数を覚えさせ計算を覚えさせます。それなしに数とは何か、計算とは何かを教えるのは有害でしかありません。そもそも数や計算が何かと言うより大学ではそれを作って定義することから始めます。数や計算を知らずにその作り方から説明しても子どもには理解できず、かといって数や計算のイメージを持つ事も出来ず、何もできない子供になり不幸な人生を送るでしょう。大切なのは順番です。  現代哲学も順番が大切です。順番が大切ですがどういう順番がいいかは人それぞれです。それはお釈迦様の方便と一緒です。本書の切り口は現代哲学のイメージを作ることです。なぜそうなのかの説明は二次的なものとして結論を示します。前提として現代哲学のイメージを持っていない人に説明から始めるのではなく現代哲学の形を示します。現代社会は現代哲学神話的な社会ですので勘がいい人はそれだけで何かを悟る人もいるでしょう。ただダイヤモンドの専門家でもない人がたまたまダイヤモンドをハンマーで叩いてダイヤが割れたとしてもただの偶然かもしれません。しかしダイヤモンドの専門家に調べてもらって正しい方向から正しくハンマーを振り下ろせば割ることが出来るでしょう。現代哲学と言うダイヤモンドもそれと同じです。  仏教の核心は大乗仏教の創始者ナーガールジュナ(龍樹)の空論と中観論、それをまとめると天台宗の中興の祖天台智顗の三諦論でそれを基本に東洋思想と東洋社会は作られました。それと同じように現代思想も、そして現代の社会も科学技術も現代哲学から作られています。  地球の大部分、70%以上を形成するのはマントルであり、マントルはかんらん岩でできています。そのマントルの中で作られるのがダイヤモンドです。ダイヤモンドは一番固くて傷つきにくいうえに屈折率も一番高いので一番輝く宝石であり「宝石の王様」と言われています。  現代哲学もマントルにおけるダイヤモンドの様に全ての知の結晶です。現代以前の全ての知の集大成から生じてカットして磨いたダイヤモンドが光を全ての方向に放つようにそこから放射して現代の全て思想、科学、技術を作る知の原石です。  本書が人類が到達した知の深層にたどり着くための道しるべになって多くの人が現代哲学を分かったと感じられるように祈り本書を執筆します。 §1. もう考えるのはやめよう!  「我考える、ゆえに我あり」「人間は考える葦である」、デカルトとパスカルの言葉です。意味はともかく人間は考えるものだということを言っています。  好奇心のおもむくところ、知りたいと思う心があるとき人は何かを考えます。考えようと望まなくても考えていると自分で意識しなくても人は何かを考えています。その「何か」は広範囲におよび、人が考えられる限りの全ての領域に網羅するようです。  人が考える事の中で究極のものと考えられたのが「真理」、とか「法則」などと呼ばれるものです。正しくて確かで全てのことを説明してくれる知の到達点です。「真理」や「法則」が分かれば全ての知りたいことが分かります。知りたいことの説明もつきます。間違っていないと主張できます。  「真理」や「法則」は宗教や哲学の専売特許でしたが途中から自然科学が参入しました。哲学は人文科学で研究されるようになります。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教では「宗教」は「心理」や「法則」を知っているのは全知全能の神のみであると考えます。神は正しく全てを知っています。そもそも全ては神がつくったものです。議論の余地はありません。  哲学は「考える」ことによって「真理」や「法則」を研究します。その結論をまとめたものが現代哲学です。  現代哲学の結論は「もう十分に考えた。これ以上考えても仕方がない。もう考えるのは止めよう」というものです。この場合「考える」とは「探求する」ということです。  哲学が探求する「究極の真理」は何千年も天才から普通の人まで膨大な数の人類が追求してきたことです。そのため議論が出尽くしてしまった、と見なされるようになりました。 議会や会議で例えてみましょう。例えば古代から現代までの人類の天才たちが集まって会議をしたと考えます。その場で「真理」とは何か「「これ以上議論しても仕方がない」という感じです。議会や企業の会議で言えば「議論は出尽くした。決を採ろう」となります。学術的な議論の場合は決を採る必要はありません。 それでは会議や議会はムダかというとそうではありません。有益な点があります。持っている議論の材料を出し尽くすことが出来るかもしれません。また違いを知ることが出来るかもしれません。そして「ここまでは合意出来る」という共通点を見つけることが出来るかもしれません。つまり議題に対して「全会一致の結論が出る」までの有益性はないにせよ、「ここまでは全員が賛成できる」という部分的な合意は出来るかもしれません。合意できる全員の一致点を明確にすることは一つの情報になります。会議や議会が全く無駄なものに終わるか有益かどうかはケースバイケースです。哲学の場合は一致点を見出すことができました。 哲学が探求してきた「真理」や「法則」についての一致点をまとめて表現したものが現代哲学です。現代哲学は「これ以上考えても仕方がない」かどうかについて明確に判定します。同時に「全員一致の結論が出る」部分についても明確に判定しています。別の面から見ると哲学という学問の最低限の常識を示すことに成功しています。 その常識は何か。哲学では「有無を問う」「ある場合にはそれがどんなものかを問う」ことが問題になります。 哲学の最終的な答えは全員が合意できる「真理」や「法則」が有るか無いかは分からないというものです。そして例えそれが有ったとしてもそれがどういうものかは分からないというものです。  ここから現代哲学の1つ目の結論が導き出されます。 ① 正しいこと、確かなことは分からない。考えてもしかたがない。  これが現代哲学の1つ目の結論です。  次のセクションで2つ目の結論を示しましょう。 §2. これからは作っていこう!  §1の結論について別の見方をしてみましょう。  やはり人類の天才たちの会議を例に考えてみましょう。 「有無」「何か」「どういったものか」という問いをするとき、我々は既にある何かを念頭に置いています。§1で現代哲学が出した結論は「そういう問いへの答えは分からないので考えても仕方がない」というものです。真理や法則のようなものが「有る」「無い」「何々とは○○というものである」「どのようなものかというと○○というものである」と提案しても全員の意見の一致は得られません。もし一致があるとすると全員が棄権する場合です。もし全員棄権全会一致で何らかの合意が得られてもそれは正しさや確かさの保証にはなりません。多数決は決めるためのもので正しさや確かさを確認するためのものではありません。多数決では分からなくても決める事は出来ます。何しろ多数「決」と言うくらいです。これは悲観的な結論に見えるかもしれません。こんな結論受け入れられないと思う人もいるかもしれません。 しかし分かることが出来ずに決めることしかできないと書くと否定的に聞こえますが、逆に言えばもう分かろうとする必要がなく、決めることが出来るので決めることに専念すればよいと考えてみるとどうでしょう?今まで分かることに気を取られ過ぎて「決める」ことについては考えてこなかったとも考えられます。分からないことは考えずに決めることに全てを費やし集中的に考えてみます。すると決めることで新たな世界が開かれることが分かります。 物事はコインのようなもので表と裏は切り離せません。表裏をいい面と悪い面としてみましょう。コインが表裏一体のごとく物事のいい面も悪い面も同じものの別の側面に過ぎません。いい面があるゆえに悪い面があり、悪い面があるゆえに良い面があります。悪い面をなくすといい面もなくなり、いい面をなくすと悪い面がなくなります。ピンチの後にはチャンスありと言います。失敗は成功の基とも言います。    会議の反対は議会です。議会は法律を作るところですがもっと広く言うとルールを作るところです。過去から現在までの人類の天才たちを集めて議論しても「真理」や「法則」があるのかどうか、あるならどんなものなのか分からないというのが§1. の結論でした。何が確かか正しいか分からないことが分かったのだからもう考えるのをやめて自分たちで確かで正しいものを決めるというのが現代哲学の2つ目の結論です。  本当に必要なのか分からない会議に参加させられて不毛な議論にうんざりした経験のある方は多いでしょう。それは法律を作る議会のようなものです。§1では考えるのをやめようという結論について書きましたがそれは何も考えなくてもいいということではありません。「正しく確かなものを発見して証明する」ということから「正しく確かなものを作って機能を検証する」ことに考える事が変わっただけです。 この様に前提を替えてみると「正しさ」や「確かさ」などの言葉や概念は根本から見直す必要があります。もし「正しい」とか「確かな」という言葉を使うのであれば現代哲学のやり方で定義しなければいけません。そもそも「正しい」とか「確かな」という言葉や概念は現代哲学では必要ない可能性も出てきます。また「定義」という言葉も掘り下げると現代哲学では定義はするものであってされているものではありません。 そこで現代哲学では決めること、そして決めることを作ることが重要になります。度々議会を例えに使いますが議会で法案を作成し法律を成立させるのに似ています。現代哲学ではアイデアは発見するものではなく発明するものです。何かもうあるものを吟味するのではなく何かまだないものを構築します。 §1.で会議で全会一致の合意ができないものは切り捨てる話をしました。そこから「分からないものは考えない。考えても仕方がないものは考えない」という現代哲学の1つ目の結論を導きました。 しかしここから得られる教訓はこれだけではありません。全会一致できるものがないことが分かっても人間が考える生き物であることに変わりはありません。しかし「真理」や「法則」を発見しその正しさと確かさを保証するために頭を考えてるのはもう止めるというのが現代哲学の結論でした。分からなくても人間は決めることが出来ることも分かりました。そこで導き出る現代哲学の2つ目の結論は「全員一致で合意できない場合には全員一致で合意できることを作ってしまえばいい」というものになります。考えることを分かることではなく作ることに振り替えます。 §3.

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