2020年11月16日月曜日

第3章構造主義 認知発達の「構造主義→素朴実在論」と「素朴実在論→構造主義」。 心理発達における素朴実在論的対象把握の生成、すなわちピアジェの表象的思考段階の説明とそれが先天的、あるいは後天的に生成しなくなる例を示します。 また「構造主義→素朴実在論」の2つの例、表象的思考段階より前の感覚運動期にある新生児、乳児における認知理論である対象関係論と、現代哲学の脱構築について説明します。 現代哲学の基礎 はじめに 現代哲学とは何でしょう? 哲学史で有名な哲学者の名前を挙げてみましょう。 ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、サルトルなどはご存じですか? おそらく最後のサルトルあたりが名前を聞いたことがない方がいらっしゃるかもしれません。 若い人には聞き覚えがない名前かもしれませんが、ある程度年配の方には聞き覚えのある名前の哲学者です。 若い人には馴染みがないという事はけして若い人に不名誉な事ではありません。 むしろ哲学にとっては名誉なことかもしれません。 哲学と言う学問は真理を追究したいという情熱と才能に溢れた人たちが群がり集まる学問でした。 それもあってか“哲学”という言葉には今でも高尚で深遠な響きがあるようです。 天才たちが集まり心理を追求した結果、哲学は現在では完成した学問となりました。 哲学の追求する問題に答えが出たわけです。 この完成した哲学を“現代哲学”と言います。 “現代哲学”というと現在進行して研究されている哲学の最前線と思われるかもしれません。確かに最前線なのですがそれより先のない本当の最前線まで到達してしまったので研究の必要がありません(現在哲学分野で何かを研究するのであれば過去の哲学を研究する哲学史か現実にどのように現代哲学を応用するかくらいで専門性が高い分野ですから専門の研究者たちに任せればいいでしょう)。現代哲学は全ての学問の基礎です。ですが基礎がなくても学習・研究できるのは往々にして体験するところです。むしろ意識せず空気や水の様な存在になることに基礎科学の偉大さがあるのかもしれません。その点については同じように全ての科学の基礎である数学と同じようなものです。ついでに言うと現代哲学の理解は現代数学の理解に役に立ちます。そもそも現代哲学は現代数学の真似をしたと言ってもいいくらい現代数学から影響を受けています。 偉大な先哲たちのお陰で「巨人の肩に立って見る」ことが出来るおかげで我々は古い哲学や哲学者を知る必要がありません。 冒頭に返ると若い人たちが過去の哲学者やその哲学を知らなくなってきたのは過去の偉大な当時の人類の至宝と言うべき頭脳を持った先哲たちの名誉であり、若い人の恩恵でもあります。 19世紀までは近代哲学が輝いた時代でした。20世紀には近代哲学から現代哲学の過渡期となり個々の哲学者やその哲学の内容は重要ではなくなってきました。 ニーチェくらいは知っていてもサルトルあたりの知名度が落ちてきているのはそのためです。現代哲学ではだれが現代哲学の大成者かという事は問題にしません。現代哲学(contemporary philosophyと書いて日本では現代思想と訳された)の盛り上がりの中で登場する一連の思想家たちがいるだけです。その潮流をポストモダンと言い日本ではニューアカデミズムと言って流行しました。 現代哲学は現代のリベラルアーツであって知の技法です。学ぶことで人徳を高める様な日本語の教養とは根本的に異なります。このアーツ(技術)は学問を深めるのに必須ですし学問を広めるのに有用です。何の学問にせよ問いを重ねていくと必ず哲学な問題に行き当たる瞬間があるからです。現代哲学を予め学んでおけば哲学的問題に頭脳を割かれることがありません。既に答えが与えられているからです。 我々は現代哲学の楽園に住んでいます。未だ人類が到達したことがない、疑問の答えを学ぶことが出来るのです。それは仏教でいえば「色即是空 空即是色(現象は実体とも差延ともいえる)」「諸行無常 諸法無我(全ての関係性は変わらないことはない、全て存在は主体ではない」であり悟りの境地です。大乗仏教は現代数学と並び現代哲学と同じ考え方をします。 知と思考の極点を目指しましょう。 目次 第1章 現代哲学の3つの原理と学習の準備 1-1 3つの原理  現代哲学は3つの原理から成り立っています。①素朴実在論、②構造主義、③ポスト構造主義、です。  この3つを理解し応用できるようになれば現代哲学をマスターしたことになります。    もう一つ、理解するべきことがあります。西洋近代哲学とは何を研究する学問かです。  これは正しいことは何か、確かな事は何かを研究します。  正しさ、確かさについて特に重要なのは存在の正しさ、確かさを保証する理論、認識の正しさ、確かさを保証する理論です。  ここで3つ気になる感じが出てきました。「理」「論」「証」です。  この様な本ではこの3つは当たり前のように説明なく使われることが普通でした。  しかしこの3つの語の意味を理解する事は正しさ、確かさについて考える上で重要ですので各文字を説明します。 1-2 理とは  理とは璞(あらたま)を磨いて現れる模様の事です。璞とは玉の原石です。岩石や鉱物は磨くと色々な模様が現れます。大理石(結晶質石灰岩など)、御影石(花崗岩などの深成岩や変成岩の一部)、地球のマントルを形成する橄欖岩の変性した蛇紋岩や蛇灰岩がピカピカに磨かれて建物に使われているのをよく目にします。そういった石たちには複雑な模様が見られます。玉とは中国文化を代表する宝石で造岩鉱物(岩石を作る鉱物)の一種である角閃石族のネフライトと呼ばれる鉱物です。玉とつく宝石は色々ありますが中国文化では軟玉を長らく玉としてきました。対して同じく造岩鉱物の輝石族からなる翡翠輝石は硬玉と呼ばれます。硬玉は日本の糸魚川とミャンマーが産地です。糸魚川の翡翠輝石は勾玉の材料です。中国には清朝にミャンマーから硬玉が入るまで玉と言えば軟玉が主でした。ちなみに玉は他にも鋼玉(コランダム:ルビー、サファイア)、翠玉(緑柱石、エメラルド)黄玉(トパーズ)、玉髄(カルセドニー、瑪瑙、碧玉)等様々に使われます。  石材関係でいうと大理石と言うのが結晶質石灰岩の代名詞に近いようですが社会や産業で使う石材としての岩石、石、鉱物と化学的な岩石、石、鉱物の命名は同じものでも違うものを指すことが多くあります。大理石は昔の大理国で現在の中国雲南省の大理から由来しますが大理石やその他の石材の産地です。  岩石(鉱物の集合体)を磨くと模様が出ます。模様とは図、グラフ、画、絵とも表せます。  図でなく枝分かれなく一直線に進むものが言葉でしょう。図は様々に枝分かれし文様を作ります。  ここで理とは何かを考えると理とは図でありグラフです。言葉のように枝分かれなく一直線に進みません。往々にして文系の分野は図を用いず言葉を用いて表現します。一方理系は研究内容を図で表すのが基本です。いかにきれいな図形として表現できるかが学問の魅力です。  理について注意点は真理や原理や理に適うなど理とは筋道が通った正しいものだという認識が持たれやすい事です。りそれ自体は関係性やつながりを表すものであって正しいとか矛盾がないとか整合的だとかは関係ありません。ただ関係と構造と要素のつながり方を示すだけです。  道理が通っていようと通っていまいと理は理である点に注意が必要です。  理とは日本語でことわりと訓読みしますが、ことわりは整合的で無矛盾的であることもあれば矛盾して整合性が取れない場合もあるでしょう。どちらも理は理なのです。  ですから誰かが主張する理を考える時にはそれが正しい理でない場合もある点に注意が必要です。 2-2 論とは  論と言う字は理と一緒に使われることが多くあります。「理論」「論理」などです。中医学の書誌学、文献学の某研究会で理論と論理がどう違うかわき道にそれて議論になった時がありました。  「論」と言う感じを見てみましょう。篇は言で言葉に関係する字です。 ですのでこれは言葉に関する感じです。侖は竹簡を集める意味です。理がグラフに対して論は言葉によってまとまった竹簡の内容を話す事でしょう。言葉で何かを表現する場合直線でしか情報を伝えらえません。  何かを理解してもらおうとする場合、言葉で説明する方法と、図示して説明する方法があります。  理論はグラフを言葉で説明する、論理は言説をグラフ化するという事でしょう。グラフ化=関係性の提示です。 1-3 証(證)とは  これは記すとか明かすとかいう意味になります。篇と旁で言葉をあげる、言葉を正しくするという意味になります。證は元々証とは別の字で使われていたようですが今は証の当て字かつ旧字と定められています。言と登で上申すること、裏付ける事を意味したようです。現在はどちらの字も証に統一されて証と證の両方の意味が証には含まれているようです。ここには正しいことを話すという「理」や「論」には必ずしもなかった正誤の観念が示されています。話し方であれ話す内容であれ上の人には正しくあらねばなりません。 「理」とは二字熟語を作りませんが「論」とは“論証”という言葉を作ります。  論証はひとまとまりの言説を正しく述べる事でしょう。  言葉で話す場合、統語論的に正しければ論理的に正しく、話の内容が正しければ意味論、モデル論的に正しいことになるでしょう。 1-4 理、論、証の使い方  大昔に出来た漢字の成り立ちから漢字の意味を説明する事は科学的ではありません。ですが分かり易いので漢字の起源から意味の説明をしてみました。  論と証(證)は篇が「言」です。これは言葉を表します。言葉とはもっと突き詰めれば記号です。言葉による表現を文、文章、テキスト等と言います。特徴は直列的に記号を並べて表現すること。しゃべる場合も書く場合もです。  記号で情報を表現、保存、伝達することをデジタルと言います。自然言語ならアルファベットは文字数が少なく中国の感じは記号の数が多いですがどちらもデジタルです。コンピュータは1と0の記号から成り立っているのでデジタルです。  デジタルな情報は音声を発して伝える時には時間的に直列に、文字で書いて伝える場合には平面に直列に記載されます。  言葉や記号と異なる情報の表現、保存、伝達方法に絵、図、画、グラフなどがあります。これは「理」と関係があります。理は玉の原石を磨いて現れる模様です。模様を再現、保存、伝達する方法は写真や絵を描くことでしょう。これはアナログで行う方法とデジタルで行う方法があります。  アナログの方法は写真ならアナログカメラでの撮影、絵なら紙や筆記用具を使った写実でしょう。デジタルな方法であればデジタルカメラなどで撮影して画像をデジタルに変換します。電子コンピュータがない時代であれば模様や画像を文で表現します。なかなか模様を文章で再現性を持って表現するのは骨の折れる事です。  模様に何らかの法則性があればその法則性を記述すれば比較的正確な記述が出来るかもしれませんが法則性がなればひたすら細かくありのままを記述していきます。  絵画で描写する際には比較的正確に表現できるかもしれませんが言葉にせよ絵画にせよ対象を正確に表現し、保存し、伝達することには限界があります。  石の模様ではなく幾何学の問題や証明について考えます。  中学校の幾何学の授業を思い出してください。問題を解く際には図と文の両方を使いました。小説のような文学はともかく科学では図を用いるのが現在では一般的です。しかし古の数学は文だけで現在に伝わっている事が多くあります。過去には図を正確に残すことに困難がありました。往々にして昔の書誌、文献は一次資料としてではなく写本を繰り返して伝わることが多くあります。その際に文字は正確に写せても図は正確に写せないことが多いからです。往々にしてユークリッド幾何学にせよアルキメデスの数学にせよ現代であれば図で示すことを全て文章だけで残されている事が多くあります。図を使えばもっと簡単に表現できるのにと現代人には冗長で読みにくく感じます。しかしアナログの物をそのまま残すのは難しいのです。文字ならば移すことで正確性を担保しやすいですが、図は誰が描いても同じものと言うわけにはいきません。それ自体を写すことなく保存して伝えれば一番正確ですが保存状態よく残せるとは限りません。残せるどころか原本が失われてしまう可能性も高いです。文字は写すことで写本を残せます。オリジナルではありませんが文字列が間違っていなければ原著者の記述を正確に残せます。但し正確に残せても書いている内容の理解や解釈が困難な場合があります。 1-5 理論とは 理系の学問は空間や図形認知で捉える理からなりますが、それを言語で表現したものが理論になります。  科学の法則や理論は往々にして図示して示すと分かり易いものです。小学低学年の算数の文章題を解く際には塾では線分図などの図を使って解く方法を教えます。同じ問題は中学になれば連立方程式で解く方法を習いますが連立方程式なしで解こうとする場合、言葉だけで解法を伝えるのが困難なので図を使った解き方を教えます。これと同じで石の模様を伝えるには絵や写真で伝える事が出来れば便利です。一本の樹木の枝分かれや葉っぱの付き方を正確に伝えようとする場合には文章で伝えるより絵や図を利用した方が分かり易く便利です。同じことを文章で表現しようとすればとんでもない字数になるでしょう。  科学の理論や法則と言うのもそれと同じです。図を使うと理論や法則が理解しやすくなります。同じことを文章で行うのも可能かもしれませんが読みにくくなります。図で表す、すなわち平面で表すと分かり易くなるのは何故でしょうか。  科学の法則や理論というものは要素の、所持物の関係性を表すことでできているからです。これは構造とも言います。  ある要素が複数の要素と関係を持つ場合、文字でそれを表そうとすると逐次・直線的に表していくことになります。しかし例えば物理学の諸要素を考えてみましょう。物理学の諸要素は単位を持っています。単位を持つものの演算により何かの新しい要素を表現します。質料ならg、重さならg重、長さはm、面積はm²、体積はm³、時間はs、密度はg/m³、速度はm/s、加速度はm/s²と言った具体です。長さという同じ元同士をかけ合わせたり長さと質料、長さと時間と言った異なる元を関係づける事で新しい物理的概念が生まれます。長さ、時間、速さはどれが実体でしょうか。別にどれも実体ではありません。でもどれかを実体と思っても構いません。実体であるかどうかが重要でなく要素間の関係からどういう構造が作られているかが重要であり、ここから構造主義が生まれます。世の中は沢山の元、または次元があり、多元的、多次元的です。関係の付け方も無数です。どれか2つの要素の一通りの関係付けは文で表せるかもしれません。しかし要素の数は無数にあり関係の付け方も無数にあります。そしてそれぞれは並列的に関係を持ちます。はマトリックスをなしています。マトリックスを解体して直列に、直線で表現することは可能です。しかし直列、直線をなす記号列で関係性を逐次的に記述していくよりは、図で表すことで多くの要素の多くの関係を俯瞰的、網羅的に表すことが出来ます。線を追っていくよりは一覧で見れた方が分かり易いでしょう。  図とはそのような利便性があります。 図を言語化すること自体は可能です。法則や理論は図で示した方が分かり易い場合が多いので「理」すなわち模様と捉えるべきです。しかし法則や理論を図や理ではなく直線の文字列である言葉、つまり「論」で表すことを理の論、理論と言います。 言葉は音声言語としては聴覚を用います。ですから誰かの喋っている話を聞く時には直線的であるにと止まらず更に直進的です。 文章を字で書いた時には視覚を使えます。すると図や絵を見るのとはやや違うかもしれませんが一覧性が生まれます。書かれている文字列をある程度同時に見ることが出来るので聴覚よりは並列処理が可能になります。また直進的に読むだけでなく複数の文を大まかに眺められます。聴覚だったら時間的に後に頭に入る部分を現在読んでいる部分と同時に見ることが出来ます。また読み返すことも出来ますし、文をとびとびに読むことも出来ます。 言語の象徴化が記号化で視覚化したものが文字であり文であり文章です。読まれる言葉は話される言葉が発展したものですが直進性の制約が限定的ではありますが解消された側面があります。その様に見るとテクストはそれ自体が記号やセンテンスの織りなすマトリックスの様な面があります。「文」という言葉が「ブン」だけでなく「あや」という意味を持つ所以でもあります。 文系と理系と言いますが文とは言葉と関係が強く、理とは図、形、絵、画、グラフとの関係が強いと言えます。 1-6 論理とは  論とは竹簡を集めたもので文章の集まりです。ひとまとまりをセットにするとまとまった内容になります。文書の章の様なものです。書かれていることに一定のまとまりがあり何かを表現しています。何かを表現する時に絵やグラフなどのアナログを使う場合と文字や記号などのデジタルを用いる場合があると書きました。アナログの欠点はそれ自体をそのまま保存しないといけないところです。しかし情報量は多いという長所があります。科学の法則や理論は関係性の表現で図や空間的に表現できると直感的に理解しやすいことが多くあります。図を多用すれば便利ですが図の解説がやはり必要です。図と言葉を両方用いて説明するのが理解してもらいやすいでしょう。アナログの保存はオリジナルの保存です。保存や伝達には文字の方が便利です。文字の発明(発見?)は人類史で重要な出来事でこれによって歴史が生まれました。  自然科学の法則や理論を表現するための文字の使用方法で最も重要なものが論理です。文の記法に関するルールとも呼べるのもです。論理に合わない文章は科学の法則や理論を表すものとしてふさわしくありません。   1-7 論証とは  証は科学では重要な言葉ですが理と作る二字熟語はないようです。論とは論証と言う二字熟語を作ります。証は記す、明かす、裏付ける、上申するなどの意味があります。証を通じて我々は推理小説の証拠や数学の証明という概念と出会います。論証は論によって正しさを示すという事です。  「理」や「論」の字には特に正しさや確かさの概念が入っていません。正しくも確かでなくても理は理ですし論は論ですし理論は理論ですし論理は論理です。証により科学の法則や理論の正しさが裏付けられます。論証、証明、証拠、実証などを通じてです。  論証は言葉のみで正しさを示すので重要です。言葉とは記号であり記号とはデジタルだからです。  記号や言葉が現代哲学で重要なのは現代哲学では正しさや確かさというものは探すものではなく作るものだからです。正しさや確かさを作る材料が記号です。  現代哲学では人間が記号で決める、または定義する正しさや確かさ以外は無視します。 無視すると言っても否定するわけではありません。記号のルールによって作られた確かさや正しさ以外の「確かなもの」や「正しいもの」が示されればそれを確かで正しいものと見の目る事にやぶさかではないのですが、今のところそういう確かなものや正しいものが示されることは起こっていないようですので現代哲学が現代の「正しさ」や「確かさ」についての議論の基礎になっています。 1-5 認知、認識、現象について 1-6 まとめ  「理」「論」「証(證)」は学校教育の論説文などで品要される割には深く顧みられない言葉です。しかしこれらの言葉なしには学問、特に西洋科学の移入は不可能と言える程大切な言葉です。  現代哲学の基礎は記号論です。記号とはすなわちデジタルであり、デジタルであるので見方によれば情報科学とも言えます。  現代哲学より前の哲学は記号すなわち言葉を軽視し過ぎでした。結果として言語学や数学が現代哲学を生む母体となりました。  現代哲学の目から見れば昔の哲学はラカンのボロメオの環で示されている現実界と想像界だけに目を向けていて象徴界を無視している様に見えます。  記号がなぜ重要かは本書で詳しく説明します。     第2章 素朴実在論 現代哲学は3つの原理でできています。 1つ目が素朴実在論。2つ目が構造主義。3つ目がポスト構造主義。 素朴実在論は何か現実、実際に存在するものがあるというものです。 私たちは普通色々なものにリアリティを感じながら生きています。 私は地学が好きですので河原に落ちている石について考えてみましょう。 この石ころはリアルに感じられるので普通人はどこかの成長段階まではこの石が自分が感じる様に存在していることを疑いません。 しかし知能や知識の発達するとそれが正しいという事に疑いを持つかもしれません。 石の存在は見たり触ったりすることでリアリティーがあることは変わらないでしょう。 中学、高校で物理、化学、生物、地学を勉強すれば我々の感じることと実際とは異なることを学ぶでしょう。 石ころは剛体、体積を持つものと普通は思いますが、物理や科学で量子力学や原子論や素粒子論を学べば医師というものにスカスカなイメージを持つかもしれません。 石の持つ色も工学や生理学を学べば色というものが光と言う電磁派と大脳生理学が織りなす作り物に過ぎないと感じるかもしれません。 そうすると次のような疑問が発生するかもしれません。 「存在するものは我々が感じている様に存在するとは言えないのではないか?」と。 言い換えると物の存在は人がリアリティーを感じるままに存在するとは限らないかもしれないという事です。 ですから当たり前と思われている事でもある知能の発達段階になると次の様な区別が必要になります。 つまりものが我々が感じるままに存在しているとは言えません。 更には感じるままに存在していないだけでなく、存在していると感じても実際には存在していない場合があります。 これは医学の領域で見られます。 意識レベルが低下したり特殊な精神状態になると存在しないものがリアリティーをもって感じられることがあります。手術やICUなどで見られるせん妄や認知症患者、精神病患者や薬物使用などで見られるため医療関係者以外にもある程度話を聞いたり御身内のことで体験された方はいらっしゃるかもしれません。 まとめると我々のリアリティの感覚は何のあてにもなりません。繰り返しますが物が我々の感じている通りに存在していない(感じるのと別の形で存在している)どころか存在すらしていないのかもしれないのです。 この様に現代は非常にややこしい時代です。 もはや科学的には昔のように単純に存在とは何かを捉えられません。 この様に自然科学的な考え方が常識となった時代に存在とは何かを考えれば子供の様に、昔の人の様にリアリティの感覚を根拠に存在を考えるのはないセンスです。 しかし子供や昔の人ではなくても哲学では早い時期からリアリティの感覚をものの存在の根拠にすることは無理であることは知られていました。 仮に何か確かなものの存在がありそれがリアリティーを持っていたとしてそれを感覚する心や精神、主観というものがその存在をありのままに捉える事は出来ないかもしれません。何か人の認識能力に限界がある可能性があります。 また人間の認識能力は実際には存在しないものを心の中で作り出しそれにリアリティを感じる事で確実にものが存在してそれを正確に認識できると思わせる様に人の心に働くかもしれません。 子供の考え方では「存在しているからリアリティがある」「リアリティがあるから存在していると言える」は同じ事です。しかし知能や知識が発達した現在ではこの2つは違う事です。両方とも成り立つ可能性もあれば片方しか成り立たない可能性もあり両方成り立たない可能性もあるのです。 現代における存在やリアリティの関係をいったんおいておいて、リアリティがあるのは存在しているからだし、存在しているからリアリティを感じていて、多少感覚で錯覚や錯誤があっても大筋では存在の実体を捉えているのではないかと素朴に考える考え方を素朴実在論と言います。 発達心理学者のピアジェは人間の精神発達を感覚運動期、表象的思考期に分類し、表象的思考段階を前操作的思考段階と操作的思考段階に分類しました。 そして前操作的思考段階を前概念的思考段階と直感的思考段階、操作的思考段階を具体的操作期と形式的操作期に分けました。 この前操作期の直感的思考段階がリアリティと存在を結びつける時期です。自分の経験や体験から認識した対象を存在しているからリアリティがあり、リアリティがあるから存在しているのに間違いないと思い込む時期です。 この段階を土台に言葉や数字を覚えて読みや計算を学びます。現実を言葉や数字に結び付けて国語や算数の文章題を解く、その際に線分図や鶴亀算や方程式などの図やグラフを使い更には記号操作に進むと構造主義者であり構成主義者であるピアジェは考えました。 この発達ができないと今なら神経発達障害の知能障害、昔なら重度の精神遅滞と言う風に考えらえていました。 つまり素朴実在論的な認識能力は発達や高度な社会生活の前提と考えられます。 実際に普通の我々の日常生活では素朴実在論的に物事を認識します。 もう一点、存在を考える際には全ての物事について当てはまる普遍性が必要なわけではありません。 何か一つの物が確実に存在すれば実在論は成り立ちます。何か客観的な存在するものはなく全ての存在と思われるものは精神が作り出したものに過ぎないという考え方を唯心論や観念論と言います。もしかしたら唯心論や観念論は正しいのかもしれませんが、一部、あるいはただ一つの物については存在が確かであると考えることも出来ます。実在論と唯心論/観念論の並立で、存在ごとに実在するものもあれば脳が作り出したものと分ける事が出来るかもしれません。存在論については一つの理論で全てを説明しつくそうとする理論の一般化の傾向が歴史的に目立ちがちですがその様な折衷もあっても構わないでしょう。 現実にはどちらの考え方にも決定的に正しいと言える根拠がないとみなされることにより現代哲学で整理されることになりました。 第3章 構造主義 3-1 構造→構成または構築  構造主義はsutructuralismからの訳です。  構造という言葉は静的な感じがします。我々が主観的に感じる様に実在していると思っているものが実際に存在しなくても「構造」を通じて作られているという理論です。  主観的に感じる事物が構造によってどの様に作られるのかを示すには具体的な例で説明するのが分かり易いと思います。  作るという点からいうと構造structureと言うよりは構築constructionや構成constitutionという言葉を使った方が分かり易いかもしれません。現代哲学ではジャック・デリダの脱構築deconstructionという言葉をよく使います。我々が実体と思っているものを構造主義で捉え直すことです。言い換えると素朴実在論で認識している対象を構造主義を使って理解し直すことです。この逆を構築と呼びましょう。構造主義を使って素朴実在論で認知される事物をどうやって作り出すかを示せば理解しやすいかもしれません。理解ももちろんですが納得して使いこなせるようになるのが現代哲学学習の目標です。  現代哲学を実用する場合、対象を素朴実在論と構造主義の両方の見方で見る必要があります。素朴実在論だけで見ていた対象を構造主義で見る「素朴実在論→構造主義」の変換と構造主義だけで見ていた対象を素朴実在論で見る「構造主義→素朴実在論」の変換を自由にできる様になる必要があります。前者を「脱構築」、後者を「構築」と言います。 3-2 構造主義の流行と定着  構造主義の成立は哲学史における大事件です。哲学史のみならず人類の歴史、倫理学、思想史、学術などのアカデミズムから科学、技術、産業、社会に至る大きな変革です。既存の知的領域の全てを刷新しました。  素朴実在論は既知で誰でも知っている考え方です。当たり前過ぎるために逆に反論が困難です。常識や通念は人を分かった気にさせてしまうところがあります。それ以外の考え方があるという考えを見落とすことがあります。  素朴実在論の獲得は心理発達には必須です。それがないと概念というものを持つ事が出来ずその象徴化も困難です。概念も象徴もなければその具体的操作も形式的操作も出来ません。これは構造主義/構成主義心理学のピアジェの発達研究の考え方です。  重度の神経発達の障害や外傷性の脳機能障害では概念形成や象徴化ができません。概念操作である思考、言葉、記号操作ができません。ですから素朴実在論的な認知や認識能力を持つ事は生活や社会形成、世界認識の暗黙の前提です。しかし素朴実在論的な対象把握能力は自然に身についてしまうために自分の知性の特性に無自覚になりがちです。それが当たり前、常識、通念になってしまうと「無知の知」を忘れがちです。  構造主義は素朴実在論の、更に言うと近代以前の人間の思考や知性の考え方の行き詰まりに対する打開策になりました。ポストモダンとはモダニズムに対するカウンターです。構造主義があるから素朴実在論を相対的で客観的に見る自覚が生まれました。 3-3 心理発達における「素朴実在論→構造主義」と「構造主義→素朴実在論」  概念生成や象徴化、概念や象徴の操作は心理や知能発達の過程で素朴実在論的に見につくものです。 まず「素朴実在論→構造主義」を考えてみましょう。  普通思春期頃には言語による形式的思考が可能になります。その過程が上手くいかないと脳機能の発達障害で、現在の言葉では重度の神経発達の障害、昔の言い方でいうと精神遅滞や白痴と言いました。これはどちらかと言うと先天性のイメージが強いですが、後天的に何か病気や事故による外傷による脳の傷害により知的な障害が起こるケースもあります。知能全般が機能失調を起こす場合の他に、特定の物だけ分からない場合もあります。人の顔が区別できない相貌失認、言葉が理解できない感覚性失語、字が読めない読字障害等です。  次に「構造主義→素朴実在論」の方向を考えていましょう。  これは2通りあります。  1つ目は素朴実在論的対象把握を行う様になる以前の新生児、乳児の物事の認識、あるいは認知方法です。 画期的な業績を上げたのは初期の精神分析の学派であるメラニー・クラインを中心としたクライン派の対象関係論です。  2つ目は素朴実在論的に認識している対象を構造主義で認識し直す方法です。 現代哲学において「脱構築」と呼ばれます。 一つ目の対象関係論は子供が概念生成を行えるようになるはるか前の段階である新生児・乳児期の子供の認知研究です。この段階は前述のピアジェの理論では感覚運動期と呼ばれる段階で、表象的思考段階の前段階とされています。          倫理学の歴史上この言葉は自然で適切とも言えます。構造主義は素朴実在論の批判に使われたからです。事物の存在を仮定しなくても存在やリアリティの感覚を説明できる考え方だからです。実在感やリアリティの感覚を無視、あるいは否定してもやリアリティーの感覚を解体することを脱構築都市います。Deconstructionといいます。古い哲学から現代哲学への過渡期では誰もが持っている実在感やリアリティーをどうやって批判するかに重点が置かれました。いったん古い考え方を壊してでも新しい考え方がいかに重要かを人々に広めなくてはいけません。  古い哲学との対照としてではなく、それ自体の哲学として現代哲学を理解してもらうことが大切です。批判はある意味簡単で新しい考え方を身につけ始めた図書でも可能でしょう。「構造主義(sutructuralism)」や「脱構築(deconstrcution)」は古い哲学を意識した言葉に結果的になってしまいます。  古い哲学は素朴実在論をいじっただけのものに過ぎないので改まって詳しく勉強する必要はありません。  現代哲学を理解するには古い哲学を理解してその上澄みで勉強するのもいいですが、添え自体を最初から勉強してしまいましょう。  「構造主義」という言葉は静的です。「脱構築」は実体志向的な考え方の相対化です。  どちらも古い哲学を潜在的に意識しています。現代哲学をそれ自体として学ぶ場合には構造主義という言葉より構築主義(constructualism)あるいは構成主義(constitutionarilm)が適当でしょう。Structureは静的な言葉ですがconstructionやconstitutionは動的な言葉です。古い考えに関係なく実体感やリアリティの感覚をどう作るのかを直に示せば古い哲学から学ぶ必要はありません。「脱構築」もこれと同じです。「構築」という言葉と具体的な方法を示す方が批判あ批評するより有益です。「構築」方法を学べば古い哲学で実体感やリアリティの感覚をどう考えていたのかは理解する必行がありません。  構築することはそもそも先行する実在や実体の概念に対するそのままカウンターになっています。そこを取り出して後ろ向きに古い哲学をねちねち考えるよりは前向きに構築をどんどんしていけば生産的です。  古くからあるものに対して新たな構築を考えたのであれば古い考え方を脱構築していますし、もともとなかったものを構築すれば人類に新たな知識を提供する創造を行うことになります。  現代哲学は作る学問、想像する学問です。  ここで構成主義、あるいは構築主義、また構築を説明する際には、私が構造主義を今まで説明してきた体験から思ったのですが、例示が必要です。  例えや方便が大切と言ったのは2000年以上前の現代哲学の先駆者お釈迦様ですが、構造/構成/構築主知を説明するには例にする適当な題材がたくさん必要であることに気が付きました。多分例示なしの説明で直感的な理解に達することはやや能率が悪いと思います。  そういう事で本章ではいくつかの方法で構造/構築/構成論を説明します。人によって適切な例示が異なっていると思いますので何通りかの例で示します。 5-2 熱  熱は諸中学校で習います。この場合は熱を元素のように熱素という物質を仮定して説明します。熱素の量をはかるには温度が指標になります。物質の温度が高い程熱をたくさん持っていると考えます。温度がある物体は熱を貯める能力があると考えます。物質が熱を蓄える能力を熱容量と言います。この場合熱は水で物体は熱を蓄える容器と考えます。ただ熱の場合には水と容器の例えとは合わない面があります。水の容器は蓄えられる水の量に限界があります。限界を超えると水があふれてしまってそれ以上貯められません。ねっその場合には物体にいくらでも蓄えられます。しかし物体に熱をたくあん与えれば与えるほど温度がどんどん上昇します。このように蓄えると言っても色々な蓄え方があります。ある物質が熱を貯める事により1℃温度が上昇する熱素の量を熱容量と言います。  同じ物体でもサイズが違えば蓄えて1℃温度が上がる熱量は異なります。その物体の大きさに関係しない熱を蓄える能力を比熱と言います。容量が2倍になれば2倍の水がためられるように、物体の体積が2倍になれば温度を1℃挙げるのに必要な熱量も2倍になります。容器の大きさに依存しないその物体の蓄える能力を抽出しようとしたのが比熱です。  水と水を言えれる容器の様に扱えば熱も物質の様に扱える、つまり熱も物質であるという考え方から作られたのが熱力学です。  物理に詳しくない方に予め説明しておくと温度と言うのは実在的に思える概念ですが、熱というとその実態が良く分からないと昔から考えられてきました。温度h感覚で厚さや寒さを実感できますし温度計で計測でsきます「温度を取り出して物体のように見せる」ことは出来ませんが、見えなくても温度というものが存在しそうなリアリティがあります。  それに対して熱はもっと曖昧です。まず温度なら主観的に感じられた熱というものを主観的に感じる事がきちんと考えると出来ません。また温度なら客観的に比較的容易に作れた温度計に当たる熱量計を簡単に作ることが出来ません(簡単に作れるようでいて色々細かい注意が必要)。熱を実体の様に感じられる、あるいは熱の実体性を確信できるという人はいるかもしれませんが、客観的には温度より曖昧です。  ともかく熱をその様に元素あるいは物質として扱って作られた学問を熱力学と言います。これは良くも悪くも熱実在論的です。  物理学の過渡期にボルツマンと言う人が統計力学という学問を作りました。こらはなかなか時代柄理解されずボルツマンは自殺しているようです。現代に入ると原子説が支持されるようになり、物体と言うのは分割できない粒子からできていると考えます。粒子の集合が物体であり、機体や液体ならば粒子のランダムな運動を熱と考えます。個体であれば粒子の振動を熱と考えます。この粒子の運動と言う考え方から「温度」や「熱」というものを「定義し直す」というより構成しました。温度や熱と言う概念は流離の運動から導き出されます。  この例から熱力学では熱を物体として考えています。一方統計力学は熱を「定義しておくと便利な数値」と考えています。  熱力学と統計力学どちらで考えても同じ答えが出る事が多いですが、熱力学では事得られないのに統計力学では答えられる場合があります。ですから熱力学より統計力学の方がより一般的な学問です。現在は両者は「熱統計力学」として統一されています。  この例では熱力学が素朴実在論で統計力学が構造主義と言えます。構造主義は素朴実在論も含むところも熱力学と統計力学の関係には似ていると言えます。   近代と現代は明確に分ける事は出来ないかもしれませんが、その過渡期の初めは構造主義の発見で過渡期の終わり、つまり近代の完全な終わりはポスト構造主義の成立になります。 構造主義では存在もリアリティも構造により作られたものだと考えます。構造があるから何かが存在するように思い込んだり、リアリティを感じてしまうと考えます。 構造とは何でしょう。 昔は存在すると思われていた、すなわち実在論で扱われていて、その後存在しないことが判明したにもかかわらずあたかも存在しているかの如く現在も扱われているものがよい例になるかもしれません。 色々な分野から取り出してみましょう。 例えば「熱素」というのはどうでしょう。昔は熱は物質として扱われていてそれを熱素と言いました。物理学に熱統計力学と言う分野がありますが、前半の熱力学のそのまた前半の部分は熱を熱素という物質としてみなすことで確立された理論です。その後熱素という物質はなく熱とは分子などの微粒子がランダムに運動しているものであると分かりましたが、熱を熱素として作られた理論の多くが熱統計力学に進化した後も適用可能なのでそのまま使われています。 熱を熱素という物質と見て扱う理論で熱素が存在しないと分かった今でも使う事が出来ものがあるのは何故でしょうか?熱が物質であるか熱は物質ではないかに関係なく維持されているものがあるからです。この場合熱が物質であるかどうかは重要ではなく問題にする必要がないからです。 大切なのは例えば熱の持つ性質、他の物理的要素との関係、温度との関係、他の物質との関係、比熱や熱容量、仕事やエネルギーとの関係、熱の伝導・移動の方向との関係などです。 大きく見ると古典力学、統計力学、量子力学や素粒子論、等との関係が整合性がとれていればよく、整合性がとれていれば逆に「熱素」という物質がなくてもあると仮定して理論構築した方が実用的で便利な場合さえあります。  次に「貨幣」はどうでしょうか。通貨というものはもともとは経済学の等価交換のルールに従い、保存がきいて価値変動が小さい貴金属などが使われました。  社会に目を向けて過去の「神話」「伝説」「伝承」から現在の「捏造報道」「フェイクニュース」まで嘘か本とか、虚偽や事実かを見定めるのは現代の最重要事項になっていますので少し眺めてみましょう。元々構造主義の流行は文化人類学者のレヴィ=ストロースの神話研究から始まりました。 言語について考えてみましょう。構造主義は言語学から始まったというのが一昔前の文系学者の見解でした。 数学について考えます。数学基礎論は現代哲学のプロトタイプになります。 D.ヒルベルトの幾何学基礎論から引用してみましょう。 「われわれは三種類の物の集まりを考える:第一の集まりに属するものを点と名づけA,B,C,…をもって表わし;第二の集まりに属するものを直線と名づけa, b, c, …をもって表わし、;第三の集まりに属するものを平面と名づけα,β,γ,…をもって表わす:また点を直線幾何学の構成元素、点と直線とを平面幾何学の構成元素、点、直線、および平面を立体幾何学または立体の構成元素という。  われわれは点、直線、平面をある相互関係において考え、この関係を表すのに『横たわる』、『間』、『合同』、『平行』、『連続』などの言葉を用いる。そして幾何学の公理によってこれらの関係を正確に、かつ数学上の目的に対して完全に記述する。 幾何学の公理はこれを五群に分かつことが出来る:これらのぐんのおのおのは、ある同じ種類のわれわれの直感の基礎事実を言い表す。これらの公理群を次のごとく名づける: Ⅰ₁₋₈.結合の公理 Ⅱ₁₋₄.順序の公理 Ⅲ₁₋₅.合同の公理 Ⅳ. 平行の公理 Ⅴ₁₋₂.連続の公理』 」 「魂」はどうでしょう。原始仏教の釈迦の教え、大乗仏教の空の理論は現代哲学との関係は分かりませんが現代哲学の遡ること2000年以上前に現代哲学を先取りした現代哲学と同じ理論です。 「諸行無常 諸法無我」「五蘊皆空」 法とはこの場合「存在」という意味です。諸々の存在には我がないと言っています。 少なくとも人間には我がないのです。我がないので魂もないのです。人間は五蘊でできています。五蘊とは色・受・想・行・識ですがそのどれもが空です。かつそれが集まって作られる人間自体も空です。ここには輪廻転生する主体としての魂という考え方がありません。死ねば五蘊も霧散し人は無になります。この場合は空ではなく無になります。 第4章 ポスト構造主義

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