2020年11月4日水曜日

現代哲学の基礎という題で書いてみる事にしました。 もともと原理が3つしかないので入門とするには大仰ですし、入門、基礎、初級などの候補から基礎がいいかなと思いました。 3つの原理だけ丁寧に説明したいので、「理」「論」「証(證)」などの使い方を説明してみました。 これらの言葉は何やら漫然と使われていることが多い気がいたします。 これらの言葉がないと西洋科学を日本語で行う事は出来ない気がしますので不思議な気もします。 やはり構造主義の説明が一番難しい気がしますので色々説明のための方便のネタを集めたいと思います。現代哲学の基礎という題で書いてみる事にしました。 もともと原理が3つしかないので入門とするには大仰ですし、入門、基礎、初級などの候補から基礎がいいかなと思いました。 3つの原理だけ丁寧に説明したいので、「理」「論」「証(證)」などの使い方を説明してみました。 これらの言葉は何やら漫然と使われていることが多い気がいたします。 これらの言葉がないと西洋科学を日本語で行う事は出来ない気がしますので不思議な気もします。 やはり構造主義の説明が一番難しい気がしますので色々説明のための方便のネタを集めたいと思います。

現代哲学の基礎という題で書いてみる事にしました。 もともと原理が3つしかないので入門とするには大仰ですし、入門、基礎、初級などの候補から基礎がいいかなと思いました。 3つの原理だけ丁寧に説明したいので、「理」「論」「証(證)」などの使い方を説明してみました。 これらの言葉は何やら漫然と使われていることが多い気がいたします。 これらの言葉がないと西洋科学を日本語で行う事は出来ない気がしますので不思議な気もします。 やはり構造主義の説明が一番難しい気がしますので色々説明のための方便のネタを集めたいと思います。 現代哲学の基礎 はじめに 現代哲学とは何でしょう? 哲学史で有名な哲学者の名前を挙げてみましょう。 ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、サルトルなどはご存じですか? おそらく最後のサルトルあたりが名前を聞いたことがない方がいらっしゃるかもしれません。 若い人には聞き覚えがない名前かもしれませんが、ある程度年配の方には聞き覚えのある名前の哲学者です。 若い人には馴染みがないという事はけして若い人に不名誉な事ではありません。 むしろ哲学にとっては名誉なことかもしれません。 哲学と言う学問は真理を追究したいという情熱と才能に溢れた人たちが群がり集まる学問でした。 それもあってか“哲学”という言葉には今でも高尚で深遠な響きがあるようです。 天才たちが集まり心理を追求した結果、哲学は現在では完成した学問となりました。 哲学の追求する問題に答えが出たわけです。 この完成した哲学を“現代哲学”と言います。 “現代哲学”というと現在進行して研究されている哲学の最前線と思われるかもしれません。確かに最前線なのですがそれより先のない本当の最前線まで到達してしまったので研究の必要がありません(現在哲学分野で何かを研究するのであれば過去の哲学を研究する哲学史か現実にどのように現代哲学を応用するかくらいで専門性が高い分野ですから専門の研究者たちに任せればいいでしょう)。現代哲学は全ての学問の基礎です。ですが基礎がなくても学習・研究できるのは往々にして体験するところです。むしろ意識せず空気や水の様な存在になることに基礎科学の偉大さがあるのかもしれません。その点については同じように全ての科学の基礎である数学と同じようなものです。ついでに言うと現代哲学の理解は現代数学の理解に役に立ちます。そもそも現代哲学は現代数学の真似をしたと言ってもいいくらい現代数学から影響を受けています。 偉大な先哲たちのお陰で「巨人の肩に立って見る」ことが出来るおかげで我々は古い哲学や哲学者を知る必要がありません。 冒頭に返ると若い人たちが過去の哲学者やその哲学を知らなくなってきたのは過去の偉大な当時の人類の至宝と言うべき頭脳を持った先哲たちの名誉であり、若い人の恩恵でもあります。 19世紀までは近代哲学が輝いた時代でした。20世紀には近代哲学から現代哲学の過渡期となり個々の哲学者やその哲学の内容は重要ではなくなってきました。 ニーチェくらいは知っていてもサルトルあたりの知名度が落ちてきているのはそのためです。現代哲学ではだれが現代哲学の大成者かという事は問題にしません。現代哲学(contemporary philosophyと書いて日本では現代思想と訳された)の盛り上がりの中で登場する一連の思想家たちがいるだけです。その潮流をポストモダンと言い日本ではニューアカデミズムと言って流行しました。 現代哲学は現代のリベラルアーツであって知の技法です。学ぶことで人徳を高める様な日本語の教養とは根本的に異なります。このアーツ(技術)は学問を深めるのに必須ですし学問を広めるのに有用です。何の学問にせよ問いを重ねていくと必ず哲学な問題に行き当たる瞬間があるからです。現代哲学を予め学んでおけば哲学的問題に頭脳を割かれることがありません。既に答えが与えられているからです。 我々は現代哲学の楽園に住んでいます。未だ人類が到達したことがない、疑問の答えを学ぶことが出来るのです。それは仏教でいえば「色即是空 空即是色(現象は実体とも差延ともいえる)」「諸行無常 諸法無我(全ての関係性は変わらないことはない、全て存在は主体ではない」であり悟りの境地です。大乗仏教は現代数学と並び現代哲学と同じ考え方をします。 知と思考の極点を目指しましょう。 目次 第1章 現代哲学の3つの原理 1-1 3つの原理  現代哲学は3つの原理から成り立っています。①素朴実在論、②構造主義、③ポスト構造主義、です。  この3つを理解し応用できるようになれば現代哲学をマスターしたことになります。    もう一つ、理解するべきことがあります。西洋近代哲学とは何を研究する学問かです。  これは正しいことは何か、確かな事は何かを研究します。  正しさ、確かさについて特に重要なのは存在の正しさ、確かさを保証する理論、認識の正しさ、確かさを保証する理論です。  ここで3つ気になる感じが出てきました。「理」「論」「証」です。  この様な本ではこの3つは当たり前のように説明なく使われることが普通でした。  しかしこの3つの語の意味を理解する事は正しさ、確かさについて考える上で重要ですので各文字を説明します。 1-2 理とは  理とは璞(あらたま)を磨いて現れる模様の事です。玉とは中国文化を代表する宝石で造岩鉱物(岩石を作る鉱物)の一種である角閃石族のネフライトと呼ばれる鉱物です。こういう話は私の様な地学好きにはたまらない話ですが高校で地学を専攻したことがない方には退屈かもしれません。玉とつく宝石は色々ありますが中国文化では軟玉を長らく玉としてきました。対して同じく造岩鉱物の輝石族からなる翡翠輝石は硬玉と呼ばれます。硬玉は日本の糸魚川とミャンマーが産地で中国には清朝にミャンマーから硬玉が入るまで玉と言えば軟玉が主でした。ちなみに玉は他にも鋼玉(コランダム:ルビー、サファイア)、黄玉(トパーズ)、玉髄(カルセドニー、瑪瑙、碧玉)等様々に使われます。  石材関係でいうと大理石と言うのが結晶質石灰岩の代名詞でやはり模様を愛ずるものです。大理石は昔の大理国で現在の中国雲南省の大理から由来しますが大理石やその他の鉱物の産地です。  岩石(鉱物の集合体)を磨くと模様が出ます。模様とは図、グラフ、画、絵とも表せます。  図でなく枝分かれなく一直線に進むものが言葉でしょう。図は様々に枝分かれし文様を作ります。  ここで理とは何かを考えると理とは図でありグラフです。言葉のように枝分かれなく一直線に進みません。往々にして文系の分野は図を用いず言葉を用いて表現します。一方理系は研究内容を図で表すのが基本です。いかにきれいな図形として表現できるかが学問の魅力です。  理について注意点は真理や原理や理に適うなど理とは筋道が通った正しいものだという認識が持たれやすい事です。りそれ自体は関係性やつながりを表すものであって正しいとか矛盾がないとか整合的だとかは関係ありません。ただ関係と構造と要素のつながり方を示すだけです。  道理が通っていようと通っていまいと理は理である点に注意が必要です。  理とは日本語でことわりと訓読みしますが、ことわりは整合的で無矛盾的であることもあれば矛盾して整合性が取れない場合もあるでしょう。どちらも理は理なのです。  ですから誰かが主張する理を考える時にはそれが正しい理でない場合もある点に注意が必要です。 2-2 論とは  論と言う字は理と一緒に使われることが多くあります。「理論」「論理」などです。中医学の書誌学、文献学の某研究会で理論と論理がどう違うかわき道にそれて議論になった時がありました。  「論」と言う感じを見てみましょう。篇は言で言葉に関係する字です。   侖は竹簡を集める意味です。 ですのでこれは言葉に関する感じです。理がグラフに対して論は言葉によってまとまった竹簡の内容を話す事でしょう。言葉で何かを表現する場合直線でしか情報を伝えらえません。  何かを理解してもらおうとする場合、言葉で説明する方法と、図示して説明する方法があります。  理論はグラフを言葉で説明する、論理は言説をグラフ化するという事でしょう。グラフ化=関係性の提示です。 1-3 証(證)とは  これは記すとか明かすとかいう意味になります。篇と旁で言葉をあげる、言葉を正しくするという意味になります。言葉を上げるのであれば上申するという事でしょう。ここには正しいことを話すという「理」や「論」には必ずしもなかった正誤の観念が示されています。話し方であれ話す内容であれ上の人には正しくあらねばなりません。 「理」とは二字熟語を作りませんが「論」とは“論証”という言葉を作ります。  論証はひとまとまりの言説を正しく述べる事でしょう。  言葉で話す場合、統語論的に正しければ論理的に正しく、話の内容が正しければ意味論、モデル論的に正しいことになるでしょう。 1-4 まとめ  「理」「論」「証(證)」は学校教育の論説文などで品要される割には深く顧みられない言葉です。しかしこれらの言葉なしには学問、特に西洋科学の移入は不可能と言える程大切な言葉です。     第2章 素朴実在論 現代哲学は3つの原理でできています。 1つ目が素朴実在論。2つ目が構造主義。3つ目がポスト構造主義。 素朴実在論は何か現実、実際に存在するものがあるというものです。 私たちは普通色々なものにリアリティを感じながら生きています。 私は地学が好きですので河原に落ちている石について考えてみましょう。 この石ころはリアルに感じられるので普通人はどこかの成長段階まではこの石が自分が感じる様に存在していることを疑いません。 しかし知能や知識の発達するとそれが正しいという事に疑いを持つかもしれません。 石の存在は見たり触ったりすることでリアリティーがあることは変わらないでしょう。 中学、高校で物理、化学、生物、地学を勉強すれば我々の感じることと実際とは異なることを学ぶでしょう。 石ころは剛体、体積を持つものと普通は思いますが、物理や科学で量子力学や原子論や素粒子論を学べば医師というものにスカスカなイメージを持つかもしれません。 石の持つ色も工学や生理学を学べば色というものが光と言う電磁派と大脳生理学が織りなす作り物に過ぎないと感じるかもしれません。 そうすると次のような疑問が発生するかもしれません。 「存在するものは我々が感じている様に存在するとは言えないのではないか?」と。 言い換えると物の存在は人がリアリティーを感じるままに存在するとは限らないかもしれないという事です。 ですから当たり前と思われている事でもある知能の発達段階になると次の様な区別が必要になります。 つまりものが我々が感じるままに存在しているとは言えません。 更には感じるままに存在していないだけでなく、存在していると感じても実際には存在していない場合があります。 これは医学の領域で見られます。 意識レベルが低下したり特殊な精神状態になると存在しないものがリアリティーをもって感じられることがあります。手術やICUなどで見られるせん妄や認知症患者、精神病患者や薬物使用などで見られるため医療関係者以外にもある程度話を聞いたり御身内のことで体験された方はいらっしゃるかもしれません。 まとめると我々のリアリティの感覚は何のあてにもなりません。繰り返しますが物が我々の感じている通りに存在していない(感じるのと別の形で存在している)どころか存在すらしていないのかもしれないのです。 この様に現代は非常にややこしい時代です。 もはや科学的には昔のように単純に存在とは何かを捉えられません。 この様に自然科学的な考え方が常識となった時代に存在とは何かを考えれば子供の様に、昔の人の様にリアリティの感覚を根拠に存在を考えるのはないセンスです。 しかし子供や昔の人ではなくても哲学では早い時期からリアリティの感覚をものの存在の根拠にすることは無理であることは知られていました。 仮に何か確かなものの存在がありそれがリアリティーを持っていたとしてそれを感覚する心や精神、主観というものがその存在をありのままに捉える事は出来ないかもしれません。何か人の認識能力に限界がある可能性があります。 また人間の認識能力は実際には存在しないものを心の中で作り出しそれにリアリティを感じる事で確実にものが存在してそれを正確に認識できると思わせる様に人の心に働くかもしれません。 子供の考え方では「存在しているからリアリティがある」「リアリティがあるから存在していると言える」は同じ事です。しかし知能や知識が発達した現在ではこの2つは違う事です。両方とも成り立つ可能性もあれば片方しか成り立たない可能性もあり両方成り立たない可能性もあるのです。 現代における存在やリアリティの関係をいったんおいておいて、リアリティがあるのは存在しているからだし、存在しているからリアリティを感じていて、多少感覚で錯覚や錯誤があっても大筋では存在の実体を捉えているのではないかと素朴に考える考え方を素朴実在論と言います。 発達心理学者のピアジェは人間の精神発達を感覚運動期、表象的思考期に分類し、表象的思考段階を前操作的思考段階と操作的思考段階に分類しました。 そして前操作的思考段階を前概念的思考段階と直感的思考段階、操作的思考段階を具体的操作期と形式的操作期に分けました。 この前操作期の直感的思考段階がリアリティと存在を結びつける時期です。自分の経験や体験から認識した対象を存在しているからリアリティがあり、リアリティがあるから存在しているのに間違いないと思い込む時期です。 この段階を土台に言葉や数字を覚えて読みや計算を学びます。現実を言葉や数字に結び付けて国語や算数の文章題を解く、その際に線分図や鶴亀算や方程式などの図やグラフを使い更には記号操作に進むと構造主義者であり構成主義者であるピアジェは考えました。 この発達ができないと今なら神経発達障害の知能障害、昔なら重度の精神遅滞と言う風に考えらえていました。 つまり素朴実在論的な認識能力は発達や高度な社会生活の前提と考えられます。 実際に普通の我々の日常生活では素朴実在論的に物事を認識します。 もう一点、存在を考える際には全ての物事について当てはまる普遍性が必要なわけではありません。 何か一つの物が確実に存在すれば実在論は成り立ちます。何か客観的な存在するものはなく全ての存在と思われるものは精神が作り出したものに過ぎないという考え方を唯心論や観念論と言います。もしかしたら唯心論や観念論は正しいのかもしれませんが、一部、あるいはただ一つの物については存在が確かであると考えることも出来ます。実在論と唯心論/観念論の並立で、存在ごとに実在するものもあれば脳が作り出したものと分ける事が出来るかもしれません。存在論については一つの理論で全てを説明しつくそうとする理論の一般化の傾向が歴史的に目立ちがちですがその様な折衷もあっても構わないでしょう。 現実にはどちらの考え方にも決定的に正しいと言える根拠がないとみなされることにより現代哲学で整理されることになりました。 第3章 構造主義 近代と現代は明確に分ける事は出来ないかもしれませんが、その過渡期の初めは構造主義の発見で過渡期の終わり、つまり近代の完全な終わりはポスト構造主義の成立になります。 構造主義では存在もリアリティも構造により作られたものだと考えます。構造があるから何かが存在するように思い込んだり、リアリティを感じてしまうと考えます。 構造とは何でしょう。 昔は存在すると思われていた、すなわち実在論で扱われていて、その後存在しないことが判明したにもかかわらずあたかも存在しているかの如く現在も扱われているものがよい例になるかもしれません。 色々な分野から取り出してみましょう。 例えば「熱素」というのはどうでしょう。昔は熱は物質として扱われていてそれを熱素と言いました。物理学に熱統計力学と言う分野がありますが、前半の熱力学のそのまた前半の部分は熱を熱素という物質としてみなすことで確立された理論です。その後熱素という物質はなく熱とは分子などの微粒子がランダムに運動しているものであると分かりましたが、熱を熱素として作られた理論の多くが熱統計力学に進化した後も適用可能なのでそのまま使われています。 熱を熱素という物質と見て扱う理論で熱素が存在しないと分かった今でも使う事が出来ものがあるのは何故でしょうか?熱が物質であるか熱は物質ではないかに関係なく維持されているものがあるからです。この場合熱が物質であるかどうかは重要ではなく問題にする必要がないからです。 大切なのは例えば熱の持つ性質、他の物理的要素との関係、温度との関係、他の物質との関係、比熱や熱容量、仕事やエネルギーとの関係、熱の伝導・移動の方向との関係などです。 大きく見ると古典力学、統計力学、量子力学や素粒子論、等との関係が整合性がとれていればよく、整合性がとれていれば逆に「熱素」という物質がなくてもあると仮定して理論構築した方が実用的で便利な場合さえあります。  次に「貨幣」はどうでしょうか。通貨というものはもともとは経済学の等価交換のルールに従い、保存がきいて価値変動が小さい貴金属などが使われました。  社会に目を向けて過去の「神話」「伝説」「伝承」から現在の「捏造報道」「フェイクニュース」まで嘘か本とか、虚偽や事実かを見定めるのは現代の最重要事項になっていますので少し眺めてみましょう。元々構造主義の流行は文化人類学者のレヴィ=ストロースの神話研究から始まりました。 言語について考えてみましょう。構造主義は言語学から始まったというのが一昔前の文系学者の見解でした。 数学について考えます。数学基礎論は現代哲学のプロトタイプになります。 D.ヒルベルトの幾何学基礎論から引用してみましょう。 「われわれは三種類の物の集まりを考える:第一の集まりに属するものを点と名づけA,B,C,…をもって表わし;第二の集まりに属するものを直線と名づけa, b, c, …をもって表わし、;第三の集まりに属するものを平面と名づけα,β,γ,…をもって表わす:また点を直線幾何学の構成元素、点と直線とを平面幾何学の構成元素、点、直線、および平面を立体幾何学または立体の構成元素という。  われわれは点、直線、平面をある相互関係において考え、この関係を表すのに『横たわる』、『間』、『合同』、『平行』、『連続』などの言葉を用いる。そして幾何学の公理によってこれらの関係を正確に、かつ数学上の目的に対して完全に記述する。 幾何学の公理はこれを五群に分かつことが出来る:これらのぐんのおのおのは、ある同じ種類のわれわれの直感の基礎事実を言い表す。これらの公理群を次のごとく名づける: Ⅰ₁₋₈.結合の公理 Ⅱ₁₋₄.順序の公理 Ⅲ₁₋₅.合同の公理 Ⅳ. 平行の公理 Ⅴ₁₋₂.連続の公理』 」 「魂」はどうでしょう。原始仏教の釈迦の教え、大乗仏教の空の理論は現代哲学との関係は分かりませんが現代哲学の遡ること2000年以上前に現代哲学を先取りした現代哲学と同じ理論です。 「諸行無常 諸法無我」「五蘊皆空」 法とはこの場合「存在」という意味です。諸々の存在には我がないと言っています。 少なくとも人間には我がないのです。我がないので魂もないのです。人間は五蘊でできています。五蘊とは色・受・想・行・識ですがそのどれもが空です。かつそれが集まって作られる人間自体も空です。ここには輪廻転生する主体としての魂という考え方がありません。死ねば五蘊も霧散し人は無になります。この場合は空ではなく無になります。 第4章 ポスト構造主義

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